歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

祭神如神在 -典礼の美学と形而上学

2008-07-13 | 美学 Aesthetics
祭如在 祭神如神在 子曰 吾不與祭 如不祭 (論語 八佾第三)
ji4 ru2 za4i ji4 shen2 ru2 shen2 za4i zi3 yue1 wu2 bu4 yu3 ji4 ru2 bu4 ji4
祭ること在(い)ますが如くす。 神を祭ること、神在(い)ますが如くす。子曰わく、吾れ祭りに与(あずか)らざれば、祭らざるがごとし。

吉川幸次郎は論語(八佾第三)の上の文に対して二つの解釈を紹介している。ひとつは、子曰の前の部分を孔子の祭事における振舞を叙したもので、孔子は先祖の法事をするときには、先祖があたかもそこにいる如く敬虔に行い、先祖の神霊以外の神を祭る場合にも、神がそこに在ますがごとくであった。後半は、そういう孔子の行動を自ら説明した言葉である。もうひとつは、荻生徂徠の説で、前半は孔子以前の古典の言葉であり、それを敷衍して、後半の孔子の言葉があるというもの。いずれにしても、神々については「怪力乱神を語らず」とした孔子とその門弟達が、祭礼は重んじて、あたかも「神がいますが如く」敬虔に振る舞ったという点では一致している。
 一個の世界市民として論語のこの一節を読むと、私は、孔子の哲学思想、とくに神に対する考え方に、19世紀のカント哲学と通底するものを直観する。孔子の時代の中国は、すでに神話的世界像から脱却した合理的な啓蒙の時代であったが、人間を越える秩序への崇敬の念は孔子の中に生きていた。神の存在は理論的に証明し得ぬとしても、我々は実践理性の要請によって、あたかも「神がいますかのように」この世で行動すべきであると教えたのがカントの理想主義哲学であったが、孔子の上の言葉には、そう言う立場を先取りしたものがあるようだ。そして、孔子の場合は、単なる理性の限界内部で宗教を説いたカントをこえて居る面もあるようだ。それは、典礼・音楽・詩の位置づけである。カントは典礼については語らず、その第三批判を読むかぎりでは詩も音楽も趣味判断の域を超えるものではなかったが、孔子にあっては、詩と音楽を統合した典礼に参加することは、単なる理性の限界を超えて、形而上の世界に我々を導くのである。
 易経の「繋辞傳」によれば、儒教の神髄は「形而上」なる「道」にあり、「形而下」つまり「器」(用具)を重んじる功利主義・世俗主義ではない。目に見える世界のみを実在と思わず、また、過去の世代に対する責任を持って、彼らが、あたかも存在するかのように、礼を尽くすことこそが、我々を形而上の世界へと導くのである。孔子の倫理学は、その意味で、同世代のもの、すなわち生者に対する責任だけでなく、過去の世代、来るべき世代にたいする責任を負う「世代間倫理」なのである。 そして、世代をつなぐものこそが典礼であり、とくに音楽であり詩である。そこにこそ、孔子が理想とした美と善との一致、すなわち美を尽くし、善を尽す藝術のありかたも求められるであろう。
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