歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

辯證法にかんする覚書 :ヘーゲル 1

2005-05-13 | 哲学 Philosophy
エンチクロペディーの論理学で、ヘーゲルは、彼以前のおもだった哲学の立場をとりあげて批判しているが、そのそれらの立場が共通にもっている反辯證法的な思考方法を指摘し、その欠陥を明らかにするにあった。とくに通俗的に理解されたカントの超越論的論理学の批判として優れたものであり、およそ哲学的論理学の根本的な問題を考える者にとっての必読書とも言うべきものである。まずはじめに、「予備概念」におけるヘーゲルの議論を要約しておこう。
(A) 客観性に向かう思惟の第一の態度 Erste Stellung des Gedankens zur Objektivität = Metaphysik
ここで論ぜられるのは、「カント哲学より前にドイツに現われたような旧い形而上学」である(第二七節)。
  1. この種の形而上学は、一面的、抽象的、悟性的な有限な思考規定しかもたないが、それによって、それ自身無限で絶対的な真実在をとらえようとしている(第二八節)
  2. しかもその対象を「すでにできあがった、与えられた主語」としてあらかじめ無批判的に前提しておいて、これに上のような悟性規定を述語としてつけ加えればよいと考えている(第三〇節、第三一節)
  3. そのために具体的な全体である真理を把握しえず「あれかこれか」といった一面的な見方に陥っている(第三二節)
  4. というにある。
かかる欠陥の本質は「抽象的な同一性を原理とする」ところにある。(第三六節)批判の要点は、ヴォルフ流の形而上学が形式論理学の同一律ないし矛盾律をその形而上学的な思考原理としていたことにある。しかし同時にヘーゲルは「思想のみが存在するものの本質であることを意識していた」点、つまり自覚された形而上学(=客観的観念論)であったという点では、この古い形而上学のほうがむしろ「のちの批判哲学のやりかたよりもいっそうすぐれた」ものであったと評価する(同じ箇所、および第二八節)。そして、この独断的形而上学の次に、優れて近代的な哲学の立場である(B・Ⅰ)経験論、(B・Ⅱ)批判哲学、(C)直接知(信仰)の立場を順次とりあげ、これらの立場がそれぞれなんらかの長所をもっていることを認めながらも、思考方法の点では古い形而上学と同じく抽象的同一性の立場をでていないことを指摘する。
(B) 客観性に向かう思惟の第二の態度 Zweite Stellung des Gedankens zur Objektivität
Ⅰ経験論 Empirismus
(B・Ⅰ)経験論は現実の具体的なものを尊重し、自分の知覚で真実を確かめようとする点ですぐれている。しかし経験論は知覚と思考とを固定的に対立させ、思考には「抽象と形式的な普遍性および同一性」しか認めない。経験というものも思考や推理を用いておこなわれ、したがって形而上学を含んでいるはずであるが、経験論はそれを自覚しない。対象についても、それは一般に外的感性的な有限者を、与えられた堅固なもの、真実なものとして無反省に前提している。(第三八節) 古い形而上学は悟性の有限な形式によりながらも、なお無限な内容をとらえようとしたが、経験論にあっては形式も内容もともに有限でしかない。(同節補説)

     Ⅱ批判哲学 Kritische Philosophie

(B・Ⅱ)批判哲学が古い形而上学の思考諸規定を問題にしたのは重要な進歩であったが、それを「即自かつ対自的に」考察しないで、「主観的か客観的か」という観点からのみ考察し、たとえば原因と結果のような思考規定(カントのいわゆる範疇)を主観的なものとしてしまった。(第四一節および補説一、二)カントは彼の諸範疇をそれ自身の必然的展開によって示さないで、普通の形式論理学によって与えられている判断の種類に従ってきわめて安易にとりだしたにすぎない。(第四二節)
また現象と物自体とを固定的に対立させ、物自体を悟性の到達しえない彼岸、まったく空虚な抽象物にしてしまった。(第四四節)彼が悟性と理性とをはじめてはっきり区別し(悟性は有限で制約されたものを、理性は無限で無制約的なものを対象とする)、たんに経験にもとづくだけの悟性認識の有限性を示し、このような認識の内容を現象と名づけたことは、カント哲学の非常に重要な成果ではあるが、そのさい彼は、悟性と理性とを(したがってまた有限なものと無限なものとを)全くきりはなして対立させ、理性の無制約性を「区別をしめだす抽象的な自己同一性」(つまり悟性と同じもの)にひきもどしてしまった。カントには、理性が悟性を、無限なものが有限なものを、自己のうちに契機として含む、という辯證法的な理解が欠けていたわけである。(第四五節および補説)

カントが理性の二律背反を指摘し、悟性規定によって理性的なもの(無限なもの)を認識しようとすれば、思考は必然的に矛盾(アンティノミー)に陥る、ということを明らかにしたことは、それが「悟性形而上学のこわばったドグマティズムをとり除き、思考の辯證法的運動に注意をむけさせた」という点では、彼の最も重要な功績といわねばならない。しかしカントは「アンティノミーの積極的な真の意義」(すなわち「あらゆる現実的なものは対立した諸規定を自分のうちに含んでいるということ、従って、或る対象の認識、もっと精確にいって概念的把握ということは、その対象を対立した諸規定の具体的統一として意識することにほかならないということ」)を見ぬくにいたらず、たんに、「世界の本質は矛盾といった欠点をもつものであってはならず、矛盾はただ思考する理性に、精神の本質にのみ属すべきものである」といったごくつまらない解決しかできなかった。(第四八節および補説)

カントの実践的理性もやばり理論的理性の場合と同じく「形式主義」を脱しておらず、実践的思考の法則、実践的思考が自己を規定する基準は、「この規定するはたらきに矛盾がおこらないという悟性の同じ抽象的同一性」(「意志の自己一致、義務のために義務をなせ」)よりほかのなにものでもない等、等。(第五四節および補説)
(C)客観性へ向かう思惟の第三の態度 
Dritte Stellung des Gedankens zur Objektivität = Das unmittelbare Wissen

(C)このように批判哲学は思考を主観的なものとみ、思考の究極の使命を「抽象的普遍性、形式的同一性」と考えるから、「具体的普遍としての真理」は思考ではとらえられないということになる。最後の「直接知」の立場(ヤコービ)は、これとは逆に「思考を単に特殊なものの活動として理解し」、そのためにやはり「思考には真理をとらえる力がない」と考えている。(第六一節)すなわちこの立場では、思考・概念的把握-認識などがたんなる悟性的活動として、すなわち「制約されたもの、依存的なもの、媒介されたもの、有限なもの」の形式で対象をとらえることとみられており、したがって「真実なもの、無限なもの、無制約者、神」などといったものは思考ではとらえられないと考えられている。(第六二節)そして真理や神を知るのは精神-理性のみであり、これは思考とは異なる無媒介の「直接知、信仰」、すなわち知的直観だと考えられている。(第六三節)神や永遠なものの存在を認めているのはよいことだし、それが有限な媒介知(悟性)だけではとらえられないのも事実であるが、この立場の特徴的な誤りは、「直接知がそれだけ孤立し、媒介を排斥して、真理を内容としてもっている」とするところにある。こうした排他的・孤立的な考え方は、「さきにのべた〔旧〕形而上学的悟性のあれかこれかへ逆戻りした立場」、「有限なもの、すなわち、一面的な諸規定への固執」にほかならない。(第六四節、箪六五節)「直接性の諸規定と媒介の諸規定とをそれぞれ一方だけ絶対視して、それらが何か固定した区別をもつように思うのは、普通の抽象的な悟性にすぎない。」(第七〇節)だから「抽象的な思考(反省的形而上学の形式)と抽象的な直観(直接知の形式)とは同じものである。」(第七四節)

以上のように、ヘーゲルは経験論や批判哲学や直接知の立場がすべて古い形而上学と同じ方法上の欠陥をもつことを問題にしているのであって、それらの対象や内容を直接問題にしているのではない。

哲学の対象や内容については、彼自身も伝統的な形而上学の立場に立っている。だから、古い形而上学や直接知の哲学が絶対者・無制約者・永遠なもの・無限なもの・神というような理性的な対象をとらえようとしたことは、むしろその長所である。ただし古い形而上学はこのような理性的な対象を悟性の抽象的で有限な規定(媒介知)によってのみとらえようとしたし、直接知の立場は悟性の媒介知を全く排斥し、概念的思考を断念して、理性的対象を信仰や直観にゆだね、哲学の立場を自ら放棄してしまった。その点で古い形而上学も直接知もともに一面的で固定的な考え方に陥っている。しかし実際は、「知の直接性はその媒介を排斥しないばかりでなく、直接知は媒介知の所産であり成果であるというように、直接性と媒介とは結びついているのである。」(第六六節)

知においてだけではない、存在においても直接性と媒介とは同様に結合している。子供は現に在るものとしては直接的にあるのだが、両親から生まれたものとしては媒介されたものである。「私がベルリンにいるという私の直接的な現在性は、ここへ向ってなされた旅行によって媒介されている。」(同節)

「宗教や道徳も、それがどんなに信仰であり直接知であっても、開発、教育、教化などとよばれている媒介によって制約されている。」(第六七節。)

連関や移行や発展もみな媒介なのである。「直接性そのもののうちに媒介がふくまれている」のであるから、この両者を統一的に結びつけて考えなければ、真実のものをとらえることはできない。(第七〇節)

しかしたんに自分の外にある他者に関係し、他者によって媒介されたものは、まだ特殊的なもの・有限なものにすぎない。

無限なもの・神は、他者によって媒介されたものでなく「自己のうちで自己を自己によって媒介するもの」、「媒介と直接的な自己関係とが一つになっているもの」であり、これこそ具体的な生きた精神としての神である。(第七四節)

こうして形而上学的な絶対者を概念的に認識する方法として、媒介知と直接知とを綜合統一しうるような思考方法が求められねばならぬ。

すなわち、絶対者の認識に到達するために、あらゆるカテゴリーの媒介過程を通る必要があるがこの過程は、一つの有限な悟性規定がその否定であり他者である対立規定に移行し、さらにこれら二つの規定を統一的に含むより高い第三の規定に進むという形をくりかえしながら進行する。

このような思考方法は、全体としては「思弁的方法」と名づけられよう。それは、必ずしも辯證法的方法とおなじものではない。「辯證法」とか「辯證的なもの」というときには、この思考過程のいわば第二段階、すなわち第一の悟性規定が自己を否定してその対立規定に移行する否定的・理性的な側面を指す。しかしこの否定的自己運動なしには思弁的方法は成立しないのであって、これが論理学の方法全体の原動力であり、方法の核心である。
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