序詩
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
二行目の読点「、」は、ハングルのテキストにはっきりと表記されているから、重要な意味があると思う。
一点の恥辱なきことを(誓う・願う・祈る)
というように動詞が省略された祈願文、宣誓文のようであるが、それだけではなく、作者には、そのような理想を宣言するだけでは尽くされない思いがあって、それが、読点「、」に込められている。
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
私は心痛んだ。
のように、「私は心痛んだ」まで続く思いがある。つまり
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを(誓う私ではあるが、そうではあっても)
葉あいにそよぐ風にも
私は心痛んだ。
「空」は「天」とも訳されているが、超越的なるものの象徴である。韓国語のHaneulは「神」の意にも用いるというし、中国では、キリスト教は「天主教」と訳されていた。「天にたいして恥じるところがない生涯」とか「天が知る、地が知る、我が知る、秘密に悪を行うことは出来ない」というような言葉は、東洋の古くからの格言である。これに対して、「風」は、相対的な関係性のなかに生きる現実の困難さを象徴しているようだ。
この詩を、作者はいつ書いたのだろうか。
茨のり子さんの解説によると、日本に留学する前の作らしい。しかし、この詩は、彼のその後の運命を予言しているような響きを感じる。彼自身の中に自分の将来歩むべき道への予感の様なものがあったのではないか。
私は韓国語のことは良く分からないが、伊吹郷さんが「生きとし生けるもの」と訳した行は、直訳すれば「死に行くものすべてを」という意味だという。ここは両義的なのだ。生きることと、死すべき定めにあることは同じ事なのだから。そして、それだけではなく、もうひとつ「死ぬことのできるもの」あるいは、「いつでも、死を選らぶことのできるもの」という意味もあると思う。そうであるがゆえに、死の定めにある人間には、「生きとし生けるものすべて」を、掛け替えのない「いのち」として「いとおしまねば」という思いが生まれてくるのではないか。
「私に与えられた道を歩みゆかねば」というとき、その道がどんなものであるのか、神ならぬ我々には分からない。しかし、作者が、その道を、自己の死への予感と共に、すべての生あるものをいつくしみながら、また自己の弱さを見つめながら、「義の道を歩み行かねばならない」といっていることに間違いはないと思う。
(ハングルテキストの写真はてじょんHPからの転写です)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
二行目の読点「、」は、ハングルのテキストにはっきりと表記されているから、重要な意味があると思う。
一点の恥辱なきことを(誓う・願う・祈る)
というように動詞が省略された祈願文、宣誓文のようであるが、それだけではなく、作者には、そのような理想を宣言するだけでは尽くされない思いがあって、それが、読点「、」に込められている。
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
私は心痛んだ。
のように、「私は心痛んだ」まで続く思いがある。つまり
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを(誓う私ではあるが、そうではあっても)
葉あいにそよぐ風にも
私は心痛んだ。
「空」は「天」とも訳されているが、超越的なるものの象徴である。韓国語のHaneulは「神」の意にも用いるというし、中国では、キリスト教は「天主教」と訳されていた。「天にたいして恥じるところがない生涯」とか「天が知る、地が知る、我が知る、秘密に悪を行うことは出来ない」というような言葉は、東洋の古くからの格言である。これに対して、「風」は、相対的な関係性のなかに生きる現実の困難さを象徴しているようだ。
この詩を、作者はいつ書いたのだろうか。
茨のり子さんの解説によると、日本に留学する前の作らしい。しかし、この詩は、彼のその後の運命を予言しているような響きを感じる。彼自身の中に自分の将来歩むべき道への予感の様なものがあったのではないか。
私は韓国語のことは良く分からないが、伊吹郷さんが「生きとし生けるもの」と訳した行は、直訳すれば「死に行くものすべてを」という意味だという。ここは両義的なのだ。生きることと、死すべき定めにあることは同じ事なのだから。そして、それだけではなく、もうひとつ「死ぬことのできるもの」あるいは、「いつでも、死を選らぶことのできるもの」という意味もあると思う。そうであるがゆえに、死の定めにある人間には、「生きとし生けるものすべて」を、掛け替えのない「いのち」として「いとおしまねば」という思いが生まれてくるのではないか。
「私に与えられた道を歩みゆかねば」というとき、その道がどんなものであるのか、神ならぬ我々には分からない。しかし、作者が、その道を、自己の死への予感と共に、すべての生あるものをいつくしみながら、また自己の弱さを見つめながら、「義の道を歩み行かねばならない」といっていることに間違いはないと思う。
(ハングルテキストの写真はてじょんHPからの転写です)