「数理の歴史主義展開」(田辺元)と「場所的論理」による数学の基礎の省察(西田幾多郎)
先日の西田哲学会で「『自覚における直観と反省』と初期田辺の数理哲学」というタイトルで学会報告をされた山本舜氏の発表の司会を務めました。田辺が京都大学に提出した博士論文は数理哲学に関するもので、審査を務めたのが西田幾多郎でした。したがってこの頃の田辺と西田は『自覚』の立場で数学の基礎を省察するという点で共同作業をしていたという趣旨の興味深い発表でした。
発表の焦点は、初期田辺の立場に限定されていましたので、私は、初期田辺だけではなく、後期田辺の歴史主義の立場からなされた数学基礎論と晩年の西田幾多郎の「場所的論理」からみた数学基礎論をどう評価しますか、という質問をしましたが、それはこれからの研究課題だとのことでした。私自身は、1997年の日本哲学会で行った講演「田辺元の科学哲学と宗教哲学」のなかで、最晩年の田辺元の「数理の歴史主義展開」という遺稿のもつ意味を考察していたので、後期田辺と西田の数学論のもつ現代的な意味というテーマの方に関心があります。
おりしも、佐々木力氏から最新刊「数学的真理の迷宮」(北海道大学出版会)を献本されたばかりの時でしたので、「数学とは何か」について哲学的に再考することを促されたような気がしました。
歴史的現実に即した数学論の試みという点で、佐々木氏の数学論ーとりわけデカルトとパスカルに焦点を合わせた懐疑主義との関係ーは、田辺や西田の数学論と共通するものを感じました。
西田と田辺の数学論が二人の哲学と切り離しがたく結びついていることは、たとえば「逆対応」という西田の宗教哲学のキーワードの初出が「哲学論文集第六」に収録された「数学の哲学的基礎づけ」であったことにもよく現れています。数理、自然、精神(心)、芸術と宗教と科学の三つの領域を貫く「実在の自己表現形式」としての「論理」ないし「言葉」の探究こそは、古くて常に新しい哲学の問題と言えるでしょう。