歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

京都大学西田田辺記念講演 「懺悔道と菩薩道」

2019-05-19 | 日誌 Diary
        レジュメ
 
(1) 無教会のキリスト者である量義治は、『宗教哲学としてのカント哲学』のなかで、「啓示に接して理性が死即生を経験し、新生の理性として生まれ変わる」ことを強調することによって、「単なる理性の限界内における宗教」というカントの理性批判の立場をさらに徹底させた宗教哲学の可能性を示している。そのような哲学は、宗教を批判する批判的理性の立場そのものの批判をも含むであろう。
(2) この宗教哲学は、「恩寵は自然を破棄せずに完成させる」というトミズムの自然神学の「存在の類比」とも、バルトの啓示実証主義の「信仰の類比」とも異なる思索の場を開く。その立場は、「恩寵は自然を破棄することによって、かえって完成させる」という定式に要約することができよう。
(3) 田辺元の「懺悔道としての哲学」を、私は、自然の光としての理性の「自力」を破棄することによって、かえって完成させる「絶対他力」の宗教哲学として理解している。この哲学は、もともとは、自己と自己の帰属する民族と文化の「自己同一性の危機」―敗戦時の日本の「歴史的現実」―への田辺の哲学的応答であった。田辺自身は親鸞の浄土真宗、とくに『教行信証』の言葉に導かれていたが、それは、仏教だけに限定されたものではなく、田辺が後に書いたように『キリスト教の辯證」へと展開されるべき契機を含むものであった。民族の自己同一が問われる亡国の危機こそは、まさにユダヤ教の預言者的精神と、ユダヤ教を世界宗教へと刷新したキリスト教の起源であった事を思えば、田辺の直面した歴史的現実が、キリスト教と関わるのは当然である。
(4) 「懺悔道」は、哲学に即して言えば、カント的な「単なる理性の限界内の宗教」を支える理性の立場をも批判する「絶対批判」に基づくものであるが、宗教に即して言えば、絶対他力の恩寵に生かされる人間存在の根源的な転換としての懺悔(メタノイア)と人間の理性を越える恩寵(メタノエーシス)を主題としている。信心もまた自己に由来するものではなく恩寵の賜物であるという考え方は、メタノエティークとしての「懺悔道」とキリストの福音との間の深き内的な照応を示している。
(5) 本稿では、「懺悔道」と「菩薩行」を基軸とする戦後の田邊元の宗教哲学を、彼が使った「行道」と云う言葉を鍵として考察する。ただし、本尊や堂塔の周りを念仏して回り歩く礼拝儀式としての「行道」ではなく、田辺の言う意味での「懺悔の道」を行ずることとして理解する。そして、そのような宗教的な行を、本願他力を信ずる親鸞の「念仏行」だけに限定せずに、田辺がそうしたように、禅と念仏の区別、自力と他力の区別よりも根源的な意味で使い、道元の『正法眼蔵』における修證一等の辨道や「仏を行ずる」修道論をも含めた超宗派的な意味で、「懺悔道」と「菩薩行」とは何かを問題とする。
(6) 筆者は、まず『宝鏡記』を手引きとして、道元が嗣法した如浄の座禅が衆生済度を願う菩薩行としての座禅であったことを確認し、道元と如浄の遺偈の双方にある「活陷黄泉」の語に注目し、それを一切衆生の罪を己の身に引受けて、他者の救済のために「黄泉に下る菩薩」のことばとして理解できることを示す。
(7) 次に、「阿闍世王の救済の物語」を、親鸞が『教行信証』で重視した理由を考察する。「阿闍世の為に涅槃に入らず」という『涅槃経』の釈尊の言葉に着目して、そこから五逆と誹謗正法の重罪を犯してしまった極悪人にも救いはあるかという問題をとりあげ、弥陀の本願にある「唯除五逆誹謗正法」という言葉の意味を考察する。本稿では、これを、「五逆と誹謗正法をおかした罪人だけは救いの対象から除外する」という救済の例外規定として読むのではなく、「端的に五逆と誹謗正法の罪を除く」と読むことの妥当性を検討するが、それは、「罪人」ではなく「罪そのものを滅ぼす」と解釈するほうが、摂取不捨の弥陀の本願に相応しいからである。
(8) 最後に、キリスト教における信心業として知られる「十字架の道行き」が、「キリストに倣う」行道であることを示す。「使徒信条」のなかの「黄泉に下るキリスト」を論じたバルタザールの「過越の神秘」、ラッティンガ―の教義学(終末論)などを手引きとして、Transdescendence (下への超越)がTranscendence(上への超越)に外ならないこと、最も神から隔てられた(黄泉の)暗黒を照らす光としての「まことの菩薩」としてのキリストが罪悪深重なる被造物の救済の門を開いたと解釈できることを示す。それによって筆者は、「絶対無の菩薩行」を大乗仏教だけに限定する田辺元のキリスト教理解と批判に答えたい。
 
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