「地方公共団体」は「地方自治の本旨」に基づく運営を取り戻す時代ではないか<マッカーサーの考えた地方自治とは>
1945年8月15日日本は太平洋戦争で降伏し、翌8月30日に占領軍が厚木基地に到着したが、その日本の連合軍(GHQ)の最高司令官はマッカーサー元帥であった。改めて思うに、日本は敗戦国であって、相手のアメリカの占領「軍」の指揮下におかれたということである。これから約6年間は、占領「軍」という軍の占領政策による「政治」が行われたといってもよい。この日本における占領政策は、日本が戦ったアメリカによるのものであって、ドイツのように分割してアメリカ・イギリス・フランス・ソ連が分割して行うものではなかったので、アメリカの一存で、しかも主な決済はマッカーサーに委ねられたといってよい。例えば、天皇制を象徴天皇として残したのも最終的にはマッカーサーの本国への報告に基づくもので、マッカーサーが天皇制を占領政策に利用したというのは事実であろうが、マッカーサーが戦争の責任は全て自分であるといった昭和天皇の潔さにほれこんだからだともいわれている。この最高司令官マッカーサーは、超エリートの軍人、理想の「あるべき」アメリカに近づけるようにした意味での「理想主義者」、スコットランドの名門出身という誇りを持った、そして、ある意味「人間的な」人物でもあったのである。
体制的には、マッカーサーは日本を「極東のスイス」を目指して、財閥解体、農地改革を実施する。財閥を解体することによって、自由競争を活発化して、中小企業を栄えさせる。独占が再び起こらないように「独占禁止法」を施行した。また、農地を開放することによって、小作も土地を持てるようにして、小作も自営ができるようにした。小規模小作農とそこに点在する中小企業であるなら、軍事産業は発達しないであろうというものであった。世界の中では、平和で美しい日本の存在であって、マッカーサーが描いたのは、この「日本は極東のスイスであれ」であった。ところが、このマッカーサーの期待と目論見は、この後の20・30年の歴史によってもろくも崩れ去るのである。小規模小作農の次男・三男等は、生活が出来ず都会に出ることになる。そして、独占禁止法は厳格に運用されずに、製造業を中心に大企業が復活して、農家の次男・三男等は、その企業の労働者として働き始める素地を作ったのである。その後の日本は、都市集中型の資本主義として発展することになるのである。
さて、GHQは、日本の憲法の創設にもかかわる。ここで突然フランスのルソーの話になるがしばらくお付き合いください。ルソーは彼の生きた18世紀の戦争しか経験がないはずであるが、戦争の本質を「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に関する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、という形をとる」といっています。相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序を書き換えるのが戦争だといっているのです。倒すべき相手がもっとも大切だと思っているものに対して根本的な打撃を与えられれば、相手のダメージは相当大きいものとなるということです。第2次大戦は、まさにこの憲法を攻撃する戦いだったのです。
憲法は、国の基本法である点からいえば、象徴天皇制、国民主権に基礎を置く民主主義、戦争の放棄という基本原則は今も変わっていない。その点からいえば、マッカーサーの考えた基本秩序の「変換」は成功したと言える。事実、マッカーサーはアメリカ大統領から突然の最高司令官の地位を解任されたとき、「日本国民は、日本を敗戦という虚脱状態に陥っていた時に、民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ導いたのはマッカーサー元帥だった」(朝日新聞社社説)と誰もがほめたたえ名残り惜しんだという。
しかし、日本国憲法に一章をわざわざ設けて記した「地方自治」については、マッカーサーの考えるものと違ったものになっているといえる。彼の考える地方自治とは、アメリカにおける国とは独立した「州」が治める地方自治であったといわれている。西部劇の世界では、個人個人で自分のことは自分で守るという考え方で、「地方自治」とは、泥棒や強盗はもともと自分で撃退するという「個人の自助の精神」に基礎をおいたものとされている。強盗等には自分一人では対応できないから、自警団をつくる。さらには、それでは自分の仕事がおろそかになるので、お金を出し合い保安官を雇う。そういった意味での自分たちの自治組織として「州」が出来、その上に国をおいたのが「アメリカ合衆国」だあった。
しかし、日本にそんな「自助の精神」の考えはなかった。稲作農業に端を発する日本の組織は、集団指導体制である。互助組織はあったが、アメリカのような自助の精神はないのである。基本的には、日本の組織は中央集権的であり、彼の考える自助に基づく地方自治は育たなかったのである。現実には、「地方自治」は国の企画を受けて、地方を運営する組織であり、どこの地方に行っても「金太郎飴」のごとくほとんどの地方が同じことをやっている。実は、マッカーサーは、そのころ地方を統制していた内務省を廃止すれば、自分たちは自分たちの町を治めたがっているはずだから、都道府県は住民の直接選挙で選んだ知事の下で、地方自治を確立し中央政府とは別の運営をするだろうと考えていたようなのだ。マッカーサーは、日本の文化との違いを完全に見誤っていたのである。
ここで、先ほどわざわざ一章を設けて地方自治を規定しているといったが、日本国憲法の第8章に第92条に「地方自治の本旨」に基づいて法律でこれを定めるとある。しかし、この「地方自治の本旨」とは、定義がちゃんとどこにも書かれていない。参議院憲法審査会の資料には、「地方自治の本旨」については、地方自治が住民の意思に基づいて行われる民主主義的要素と、地方自治が国から独立した団体にゆだねられ、地方団体自ら自由主義的・地方分権的要素にあるとしている。これは、日本の「地方自治の本旨」を整理したところであるが、厳密にとらえれば、この国からの独立と地方分権要素等の点において、今の都道府県市町村のありかたには疑問が残るといえよう。
今まではそれでよかった。中央政府の号令のもと、日本経済は急速に発展してきた。しかし、将来もこれでいいのか。今それぞれの自治体が独創性を出そうとしてはいるが、もっともっと 地方のそれぞれの強みを生かして「地方自治」を取り戻すべきときに来ているのではないか。
(参考) 日本を創った12人 堺屋太一 PHP文庫 主に「アメリカ型地方自治」「財閥解体と農地解放」の記事 同署p118~
アメリカはいかに占領したか 半藤一利 同 朝日新聞社社説他
それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子 新潮文庫 ルソーの「戦争とは」
1945年8月15日日本は太平洋戦争で降伏し、翌8月30日に占領軍が厚木基地に到着したが、その日本の連合軍(GHQ)の最高司令官はマッカーサー元帥であった。改めて思うに、日本は敗戦国であって、相手のアメリカの占領「軍」の指揮下におかれたということである。これから約6年間は、占領「軍」という軍の占領政策による「政治」が行われたといってもよい。この日本における占領政策は、日本が戦ったアメリカによるのものであって、ドイツのように分割してアメリカ・イギリス・フランス・ソ連が分割して行うものではなかったので、アメリカの一存で、しかも主な決済はマッカーサーに委ねられたといってよい。例えば、天皇制を象徴天皇として残したのも最終的にはマッカーサーの本国への報告に基づくもので、マッカーサーが天皇制を占領政策に利用したというのは事実であろうが、マッカーサーが戦争の責任は全て自分であるといった昭和天皇の潔さにほれこんだからだともいわれている。この最高司令官マッカーサーは、超エリートの軍人、理想の「あるべき」アメリカに近づけるようにした意味での「理想主義者」、スコットランドの名門出身という誇りを持った、そして、ある意味「人間的な」人物でもあったのである。
体制的には、マッカーサーは日本を「極東のスイス」を目指して、財閥解体、農地改革を実施する。財閥を解体することによって、自由競争を活発化して、中小企業を栄えさせる。独占が再び起こらないように「独占禁止法」を施行した。また、農地を開放することによって、小作も土地を持てるようにして、小作も自営ができるようにした。小規模小作農とそこに点在する中小企業であるなら、軍事産業は発達しないであろうというものであった。世界の中では、平和で美しい日本の存在であって、マッカーサーが描いたのは、この「日本は極東のスイスであれ」であった。ところが、このマッカーサーの期待と目論見は、この後の20・30年の歴史によってもろくも崩れ去るのである。小規模小作農の次男・三男等は、生活が出来ず都会に出ることになる。そして、独占禁止法は厳格に運用されずに、製造業を中心に大企業が復活して、農家の次男・三男等は、その企業の労働者として働き始める素地を作ったのである。その後の日本は、都市集中型の資本主義として発展することになるのである。
さて、GHQは、日本の憲法の創設にもかかわる。ここで突然フランスのルソーの話になるがしばらくお付き合いください。ルソーは彼の生きた18世紀の戦争しか経験がないはずであるが、戦争の本質を「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に関する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、という形をとる」といっています。相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序を書き換えるのが戦争だといっているのです。倒すべき相手がもっとも大切だと思っているものに対して根本的な打撃を与えられれば、相手のダメージは相当大きいものとなるということです。第2次大戦は、まさにこの憲法を攻撃する戦いだったのです。
憲法は、国の基本法である点からいえば、象徴天皇制、国民主権に基礎を置く民主主義、戦争の放棄という基本原則は今も変わっていない。その点からいえば、マッカーサーの考えた基本秩序の「変換」は成功したと言える。事実、マッカーサーはアメリカ大統領から突然の最高司令官の地位を解任されたとき、「日本国民は、日本を敗戦という虚脱状態に陥っていた時に、民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ導いたのはマッカーサー元帥だった」(朝日新聞社社説)と誰もがほめたたえ名残り惜しんだという。
しかし、日本国憲法に一章をわざわざ設けて記した「地方自治」については、マッカーサーの考えるものと違ったものになっているといえる。彼の考える地方自治とは、アメリカにおける国とは独立した「州」が治める地方自治であったといわれている。西部劇の世界では、個人個人で自分のことは自分で守るという考え方で、「地方自治」とは、泥棒や強盗はもともと自分で撃退するという「個人の自助の精神」に基礎をおいたものとされている。強盗等には自分一人では対応できないから、自警団をつくる。さらには、それでは自分の仕事がおろそかになるので、お金を出し合い保安官を雇う。そういった意味での自分たちの自治組織として「州」が出来、その上に国をおいたのが「アメリカ合衆国」だあった。
しかし、日本にそんな「自助の精神」の考えはなかった。稲作農業に端を発する日本の組織は、集団指導体制である。互助組織はあったが、アメリカのような自助の精神はないのである。基本的には、日本の組織は中央集権的であり、彼の考える自助に基づく地方自治は育たなかったのである。現実には、「地方自治」は国の企画を受けて、地方を運営する組織であり、どこの地方に行っても「金太郎飴」のごとくほとんどの地方が同じことをやっている。実は、マッカーサーは、そのころ地方を統制していた内務省を廃止すれば、自分たちは自分たちの町を治めたがっているはずだから、都道府県は住民の直接選挙で選んだ知事の下で、地方自治を確立し中央政府とは別の運営をするだろうと考えていたようなのだ。マッカーサーは、日本の文化との違いを完全に見誤っていたのである。
ここで、先ほどわざわざ一章を設けて地方自治を規定しているといったが、日本国憲法の第8章に第92条に「地方自治の本旨」に基づいて法律でこれを定めるとある。しかし、この「地方自治の本旨」とは、定義がちゃんとどこにも書かれていない。参議院憲法審査会の資料には、「地方自治の本旨」については、地方自治が住民の意思に基づいて行われる民主主義的要素と、地方自治が国から独立した団体にゆだねられ、地方団体自ら自由主義的・地方分権的要素にあるとしている。これは、日本の「地方自治の本旨」を整理したところであるが、厳密にとらえれば、この国からの独立と地方分権要素等の点において、今の都道府県市町村のありかたには疑問が残るといえよう。
今まではそれでよかった。中央政府の号令のもと、日本経済は急速に発展してきた。しかし、将来もこれでいいのか。今それぞれの自治体が独創性を出そうとしてはいるが、もっともっと 地方のそれぞれの強みを生かして「地方自治」を取り戻すべきときに来ているのではないか。
(参考) 日本を創った12人 堺屋太一 PHP文庫 主に「アメリカ型地方自治」「財閥解体と農地解放」の記事 同署p118~
アメリカはいかに占領したか 半藤一利 同 朝日新聞社社説他
それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子 新潮文庫 ルソーの「戦争とは」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます