日本の大学の世界における水準はどうなのか(世界の大学ランキング200位では2大学のみ)
かって戊辰戦争で敗れた長岡藩は石高を6割も減らされ、藩士たちはその日の食にも窮していたが、三根山藩から米100俵が贈られた。藩の大参事の小林虎三郎は、これを食せず、学校設立の費用とすることを決定した。驚いた藩士たちが、虎三郎の下へ押しかけ抗議したときの彼のことばである。「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育に当てれば明日の一万、百万俵となる。」 この物語は「米百俵の精神」として、小泉内閣発足直後、小泉純一郎首相の所信表明演説で引用されて有名になり、長岡市のホームページにも掲載されている。(ウィキペディア要旨)これは、教育という投資は、今すぐには効果を発するものではないが、将来の社会に大きな効果をもたらすということを言っている。また、日本史のうえでも、明治以来の経済発展や戦後の高度成長に教育が大きくかかわったことは知られているとおりです。
OECD(38か国+EC)における、日本の学生・生徒一人当たりの教育機関にかける年間支出(初等教育から高等教育まで)は、1万1896ドルとなっています。これは、OECD平均を665ドルとわずかに上回っていますが、国・地方自治体の公的な負担と学習者・その家庭から支出される授業料等の私学負担を分けると、私学負担割合は28・7%、アメリカに続く5位になっています。この比率は、OECD平均の15.2%を13.5ポイントも上回っています。私学負担割合がこれだけ大きいということは、逆に言うと、日本では公的の教育支出の割合が諸外国に比べて低いことを表しています。またOECD各国の公的な教育支出を対GDP比で表したものを見ると、1位 ノルウェー6.5%、2位 アイスランド5.6% 3位 デンマーク・ベルギー・スウェーデン(いづれも同率)5.3% 日本の順位は最下位の2.8%、これはOECD平均の4.1%から1.3%低い数字です。
日本の政府支出に占める公財政教育支出の割合は、2000年に9.4% 2010年に8.4%、2017年の7.8%と減少しています。一方、社会保障費の政府支出に占める割合は、約1.7倍に拡大しているという現状です。
さらに、興味深いのは、イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション2022年」では、世界の大学ランキングトップ200位に日本の大学は東京大学(35位)と京都大学(61位)の2つしか入っていません。2011年のランキングでは、このなかに5つ入っていましたので、この10年での評価がさらに下がっていることになります。ちなみにトップの順位は、一位アメリカ57校、2位イギリスの28校、3位ドイツの22校。アジアでは中国10校(北京大学・精華大学は大学としての順位は共に16位タイ)となっており、中国が頑張っている点です
戦後の工業化社会では、大量生産型の生産に寄与するという観点から、労働者は組織の中で決定に従って正確かつ効率的に行うことが求められ、学校の授業では知識詰込み型でパターン化された技能を習得させることが行われました。このことが、戦後、日本の規格型大量生産方式の経済発展を支え、日本の経済力を世界の有数に押し上げたのです。
しかし、今やAIやロボットの開発のなかで、社会に求められる人物像は変わってきています。AI・ロボットに代替される部分とは、別の「問題を発見し解決する能力」を持ち、しかも「豊かな発想力」を備えた人材が必要とされています。そういった視点から考えた場合に、日本の大学の授業は、あまり変わっていないように思えます。昔騒がれた大学の在り様として「大学教育の中立性」も考え方としては、認めますが、このAI・ロボット時代にあっては、社会経済の現在の在り様を見た場合に、大学の在り様も変わりなければならないと思います。単なる技術・知識を教え込むのでなく、問題解決能力・発想力等を主体とした人物像が求められています。今一度、学習内容が労働市場が求める人物像にあっているか考える必要があるように思います。
「米100俵の精神」から日本の教育予算に懸ける現状、社会に巣立つ人を育てる「大学」の世界的な水準とを考えてきました。この教育費の予算の占める構成バランス、限られた国家・地方自治体の予算の中で、現在の日本は「しかたなく」教育費から社会保障に予算を回しています。しかし、それでいいのか、教育の内容も含めて、もう一度「米百俵の精神」にもどって考えていく必要があるのではないでしょうか。(私も高齢者として、福祉にかける予算のありようについては、その責任の一端を感じてはいますが・・・・・・)
参考 101のデータで読む日本の未来 宮本弘暁著 当該データや考え方は自分なりにこれを要約している。
米100俵の精神 ウィキペディア 長岡市ホームページ
かって戊辰戦争で敗れた長岡藩は石高を6割も減らされ、藩士たちはその日の食にも窮していたが、三根山藩から米100俵が贈られた。藩の大参事の小林虎三郎は、これを食せず、学校設立の費用とすることを決定した。驚いた藩士たちが、虎三郎の下へ押しかけ抗議したときの彼のことばである。「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育に当てれば明日の一万、百万俵となる。」 この物語は「米百俵の精神」として、小泉内閣発足直後、小泉純一郎首相の所信表明演説で引用されて有名になり、長岡市のホームページにも掲載されている。(ウィキペディア要旨)これは、教育という投資は、今すぐには効果を発するものではないが、将来の社会に大きな効果をもたらすということを言っている。また、日本史のうえでも、明治以来の経済発展や戦後の高度成長に教育が大きくかかわったことは知られているとおりです。
OECD(38か国+EC)における、日本の学生・生徒一人当たりの教育機関にかける年間支出(初等教育から高等教育まで)は、1万1896ドルとなっています。これは、OECD平均を665ドルとわずかに上回っていますが、国・地方自治体の公的な負担と学習者・その家庭から支出される授業料等の私学負担を分けると、私学負担割合は28・7%、アメリカに続く5位になっています。この比率は、OECD平均の15.2%を13.5ポイントも上回っています。私学負担割合がこれだけ大きいということは、逆に言うと、日本では公的の教育支出の割合が諸外国に比べて低いことを表しています。またOECD各国の公的な教育支出を対GDP比で表したものを見ると、1位 ノルウェー6.5%、2位 アイスランド5.6% 3位 デンマーク・ベルギー・スウェーデン(いづれも同率)5.3% 日本の順位は最下位の2.8%、これはOECD平均の4.1%から1.3%低い数字です。
日本の政府支出に占める公財政教育支出の割合は、2000年に9.4% 2010年に8.4%、2017年の7.8%と減少しています。一方、社会保障費の政府支出に占める割合は、約1.7倍に拡大しているという現状です。
さらに、興味深いのは、イギリスの教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション2022年」では、世界の大学ランキングトップ200位に日本の大学は東京大学(35位)と京都大学(61位)の2つしか入っていません。2011年のランキングでは、このなかに5つ入っていましたので、この10年での評価がさらに下がっていることになります。ちなみにトップの順位は、一位アメリカ57校、2位イギリスの28校、3位ドイツの22校。アジアでは中国10校(北京大学・精華大学は大学としての順位は共に16位タイ)となっており、中国が頑張っている点です
戦後の工業化社会では、大量生産型の生産に寄与するという観点から、労働者は組織の中で決定に従って正確かつ効率的に行うことが求められ、学校の授業では知識詰込み型でパターン化された技能を習得させることが行われました。このことが、戦後、日本の規格型大量生産方式の経済発展を支え、日本の経済力を世界の有数に押し上げたのです。
しかし、今やAIやロボットの開発のなかで、社会に求められる人物像は変わってきています。AI・ロボットに代替される部分とは、別の「問題を発見し解決する能力」を持ち、しかも「豊かな発想力」を備えた人材が必要とされています。そういった視点から考えた場合に、日本の大学の授業は、あまり変わっていないように思えます。昔騒がれた大学の在り様として「大学教育の中立性」も考え方としては、認めますが、このAI・ロボット時代にあっては、社会経済の現在の在り様を見た場合に、大学の在り様も変わりなければならないと思います。単なる技術・知識を教え込むのでなく、問題解決能力・発想力等を主体とした人物像が求められています。今一度、学習内容が労働市場が求める人物像にあっているか考える必要があるように思います。
「米100俵の精神」から日本の教育予算に懸ける現状、社会に巣立つ人を育てる「大学」の世界的な水準とを考えてきました。この教育費の予算の占める構成バランス、限られた国家・地方自治体の予算の中で、現在の日本は「しかたなく」教育費から社会保障に予算を回しています。しかし、それでいいのか、教育の内容も含めて、もう一度「米百俵の精神」にもどって考えていく必要があるのではないでしょうか。(私も高齢者として、福祉にかける予算のありようについては、その責任の一端を感じてはいますが・・・・・・)
参考 101のデータで読む日本の未来 宮本弘暁著 当該データや考え方は自分なりにこれを要約している。
米100俵の精神 ウィキペディア 長岡市ホームページ
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