フリードマンが亡くなった。11月16日、享年94歳。4月にはガルブレイスが亡くなったし、かつて彼らの本で学んだ者としては大変寂しい。
フリードマンはマネタリズムを代表する経済学者である。彼は、ケインズのいう政府による有効需要管理ではなく、その放漫財政によるインフレの危険を指摘し、小さな政府を、通貨供給量管理の重要性を主張した。
市場の失敗というが、政府も失敗する。政府による管理や裁量的な政策はインフレに繋がる恐れがあるし、財政政策だけでは足元のスタグフレーション(不況下でのインフレ)に有効な対策を示すことができない。政府の役割を小さくし、規制を無くして市場に任せる、民間の活力を引き出す、1980年代当時、こうした彼の主張は大変新鮮だった。又、90年代、米英が成長を続ける中での日本の低迷を見るに、この説が正しかったようにも思える。
ケインジアンの政策か、マネタリストの政策か、どちらが正しいのか、どちらを取るべきかと問われたら、私は答えに窮してしまう。
政府に広い裁量を認める、積極的な政府の活動を認めるというケインジアンの政策は、極論すれば、政府がオールマイティ、いわば全知全能の神に近い場合にのみ成り立つ話である。つまり、人々の嗜好、価値観、はたまた為替や原油価格の動向、海外の情勢等々、政府があらゆる情報を知った上で、常に適切な判断を下すという前提である。まあ、どう考えても無理な話、夢物語。さらにわが国の政治家や官僚を考えると・・・・。
では、マネタリストの政策はというと、こちらの前提は市場が正しく機能すること、即ち、変な規制や、不当な圧力を受けること無く、人々が自由に判断、活動できる社会が前提である。今の日本の社会、その政治家、官僚、特定の利益団体等を考えると、こちらも難しい気がする。
小泉改革というのは後者に近い考えを前提とするが、抵抗勢力の前に改革は思うように進まなかったし、規制緩和が格差社会を拡大したとの批判も受けた。
ところで、フリードマンは自由主義者である。市場信奉は自由主義の帰結なのである。彼は“自由”の本質は、個人の尊厳を信じ、他人が自分と同じことをする自由には干渉せず、自己の能力と機会を最大限に利用する自由を信じること、だという。自由と平等は両立するともいう。ここでいう平等とは、結果の平等ではなく、神の前での平等、即ち、機会の平等である。
世界で最も成功した共産主義国家と揶揄された日本。即ち、わが国は資本主義国家でありながら共産主義のどの国よりも所得分配が平等、分配の結果が平等だと言われた。
僕自身、何が正しいのかわからないし、だんだん年を取ると“結果の平等”が心地良く思えてくるが、社会全体が豊かになり、価値観が多様化する中、格差や平等の意味について、もう一度よく考えてみてはどうかと思う。現実の社会が、フリードマンの理想とする社会に少しでも近づくように。
フリードマンはマネタリズムを代表する経済学者である。彼は、ケインズのいう政府による有効需要管理ではなく、その放漫財政によるインフレの危険を指摘し、小さな政府を、通貨供給量管理の重要性を主張した。
市場の失敗というが、政府も失敗する。政府による管理や裁量的な政策はインフレに繋がる恐れがあるし、財政政策だけでは足元のスタグフレーション(不況下でのインフレ)に有効な対策を示すことができない。政府の役割を小さくし、規制を無くして市場に任せる、民間の活力を引き出す、1980年代当時、こうした彼の主張は大変新鮮だった。又、90年代、米英が成長を続ける中での日本の低迷を見るに、この説が正しかったようにも思える。
ケインジアンの政策か、マネタリストの政策か、どちらが正しいのか、どちらを取るべきかと問われたら、私は答えに窮してしまう。
政府に広い裁量を認める、積極的な政府の活動を認めるというケインジアンの政策は、極論すれば、政府がオールマイティ、いわば全知全能の神に近い場合にのみ成り立つ話である。つまり、人々の嗜好、価値観、はたまた為替や原油価格の動向、海外の情勢等々、政府があらゆる情報を知った上で、常に適切な判断を下すという前提である。まあ、どう考えても無理な話、夢物語。さらにわが国の政治家や官僚を考えると・・・・。
では、マネタリストの政策はというと、こちらの前提は市場が正しく機能すること、即ち、変な規制や、不当な圧力を受けること無く、人々が自由に判断、活動できる社会が前提である。今の日本の社会、その政治家、官僚、特定の利益団体等を考えると、こちらも難しい気がする。
小泉改革というのは後者に近い考えを前提とするが、抵抗勢力の前に改革は思うように進まなかったし、規制緩和が格差社会を拡大したとの批判も受けた。
ところで、フリードマンは自由主義者である。市場信奉は自由主義の帰結なのである。彼は“自由”の本質は、個人の尊厳を信じ、他人が自分と同じことをする自由には干渉せず、自己の能力と機会を最大限に利用する自由を信じること、だという。自由と平等は両立するともいう。ここでいう平等とは、結果の平等ではなく、神の前での平等、即ち、機会の平等である。
世界で最も成功した共産主義国家と揶揄された日本。即ち、わが国は資本主義国家でありながら共産主義のどの国よりも所得分配が平等、分配の結果が平等だと言われた。
僕自身、何が正しいのかわからないし、だんだん年を取ると“結果の平等”が心地良く思えてくるが、社会全体が豊かになり、価値観が多様化する中、格差や平等の意味について、もう一度よく考えてみてはどうかと思う。現実の社会が、フリードマンの理想とする社会に少しでも近づくように。