縁側でちょっと一杯 in 別府

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大雪の日に想う ~ 高村光太郎と冬の詩

2014-02-15 22:30:34 | 芸術をひとかけら
 今週末も東京は雪。それも2週続けて記録的な大雪。朝には雪が雨に変わり、時折強い雨が降っていたが、それも昼前には上がった。道路は雪が解け、べちゃべちゃに違いない。あまり出掛ける気がしない。家でのんびりしていたところ、ふと高村光太郎のことを思い出した。
 高村光太郎は『道程』や『智恵子抄』で有名な詩人そして彫刻家であるが(ご関心のある方は2006/5/12『高村光太郎の人生』をご覧ください)、彼には冬の詩が多い。「冬が来る」、「冬が来た」、「冬の朝のめざめ」、「冬の詩」等々。“きつぱりと冬が来た”で始まる「冬が来た」は、僕のお気に入りの詩の一つである。

 光太郎はなぜ冬を好んだのだろう。冬の厳しさや、妥協しない、媚びることのない、凛とした美しさ、強さを、自らの人生を強く生きて行こうという意思、あるいは決意と重ね合わせたからではないか。
 冬の詩は彼の初期の作品に多い。20代、欧米で学んだ彼は近代的自我に目覚め、帰国後、同じく彫刻家である父・高村光雲をはじめとする伝統的、封建的な社会に相容れないものを感じるようになった。彼は悩み、苦しみ、堕落した生活を送り、生きる目標すら失いかけた。そこに現れたのが智恵子である。光太郎29歳、智恵子26歳のときであった。智恵子への愛により彼は救われた。
 智恵子と出会った後、多くの冬の詩が書かれるようになった。それまでの苦悩や行き先の見えない不安から抜け出し、自らの進むべき道をはっきりと自覚したからこそ、光太郎は凛とした、力強い冬に共感したのであろう。冬の詩は、“僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る”で有名な「道程」に相通ずるものがあると思う。

 ところで、『智恵子抄』の中に「あどけない話」という詩がある。あの“智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。”で始まる詩である。智恵子にとってのほんとの空は、故郷・福島の阿多多羅山の上に広がる青い空であって、東京の空は違うというのである。
 初めてこの詩を読んだとき、僕は「東京の空は汚いから、やはりほんとの空とは言えないんだ。」と素直にそう思った。が、考えてみると、この詩が書かれたのは昭和3(1928)年。いくら東京でも空が汚いとは思えない。事実、光太郎も詩の中で東京の空のことを“むかしなじみのきれいな空”と言っている。では、いったい智恵子の言う“ほんとの空”とはなんだろう。
 それは、ただ空だけではなく、智恵子の愛した故郷・福島の自然そのものである。さらに智恵子が大切にした家族や友人など、ふるさとの人との繋がりも含むかもしれない。空が常に智恵子を見ているように、ふるさとの自然や多くの愛する人たちが智恵子をずっと見守り、育んできたからである。智恵子は東京に暮らす中でふるさとを想い、後にふるさとを失ったことが精神を病む一つの原因となった。

 『智恵子抄』には、明治45年から昭和16年までの詩が収められている。明治45年はちょうど光太郎が冬を主題にした詩を書き始めた頃。光太郎が、その後30年以上に亘り、彼が冬の詩に託した、自らに妥協せず、自らの信念に従い強く生きるとの思いを持ち続けたからこそ、『智恵子抄』は誕生したといえる。
 そう思うと、記録的な大雪だ、大変だなどと騒ぐ自らの未熟さを恥じ、冬に負けぬよう、自らを厳しく律して生きて行かねばと反省した次第である。