石川県小松市で天皇陛下も出席して植樹祭が行われた。
歓迎のセレモニーのヤンキーたちのソーランの変形というかもっと進化したものが披露された。
天皇陛下を迎えるのに、何がよいか、県職員も市職員も考えただろう。「それがソーランかよ」と僕は思った。
僕はあんまり好きでないのである。踊りは一人や二人で踊ればいいと思っているし、彼らには気迫がありすぎて、技は稚拙ということがある。絆を大事にしていそうである。なんだか情で動いているようにも思える。
天皇陛下は決して知性の象徴ではなく情というものの象徴なのだから、こういうヤンキーたちに景気づけをしてもらいたいと地方の官僚や首長は思ったのかもしれない。
わからぬ気持ちではない。ありがちな選択だと思う。植樹祭でなぜソーランなのかわからない。もっと違う、ファンタジーの世界もあったのかもしれない。あるいは厳かな儀式を作り出してもおかしくはない。ただ天皇陛下のことをおもんばかると、ああいうふうになってしまうのかと、僕らは外野席から思うのだ。
しかも小松市の多くの人が日の丸の旗を振っていた。これは妙に気持ちが悪かった。
このところ、「戦争論」を読んできた。日清、日露、そしてさきにあの戦争をいろいろな人がそれぞれの視点で語る。日露戦争のかろうじての勝利が国民を熱狂させた。その時から日中戦争、太平洋戦争の終結に至るまで、誰に責任があるのか、識者は意見を言う。
司馬遼太郎も半藤一利もここは避ける。国民にあったとも、マスコミにあったとも、政治家にあったとも軍部にあったともいう。時代の趨勢だという人もいる。自虐史観はいけないという人もいる。
僕は統帥権が天皇にあったのだから天皇の戦争責任はあると思っている。天皇が「戦争をやめろ」と言えば終わっていたのだと思う。同じようなことを言った長崎市長は暗殺されかかったが一命をとりとめた。あの事件のとき、日本には「意見をいう自由」というものがないんだな、とつくづく感じたものだ。
ヤンキー文化は「心情の文化」である。そこに客観性や分析知性はないように思える。
みんなで同じ振付をして、下手でもいいから気合いを入れて頑張る、という感じである。それが地方の隅々までいきわたっている。善いも悪いもない。そういう時代になったのだ。
小さな会社なども「気合い」でいくところが多いのかもしれない。以前にそんな相談を受けたことがあった。
中国を「悪」とする風潮もこの頃見える。中国からしてみれば、の視点がない。あれだけ、中国を蹂躙していれば中国も政府代表とすれば、日本との仲をそう簡単にはスムースにはいけないはずだ。韓国もしかりである。
日本は日露戦争の勝利で東南アジアの人々を有機づけたが、その後の振舞が悪かった。
僕の言っていることが自虐史観だとは思わない。戦争放棄に賛成するのを「平和ボケ」だとも思わない。人類が未来に残しえる憲法をもっているのは日本だけだ。それがアメリカ産だろうと、何産だろうと、あの当時の日本人では今の憲法や農地解放や教育の改革などやれるはずもない。
大衆は、大衆にとってよい政府があればいいのである。それでやっていくのである。アメリカ進駐軍がきても案外平気だったのである。人々の噂話のほうが嘘だったのである。「奴隷にされる。女はみな強姦される」などなどである。
そしてアメリカによって原子力爆弾が投下された。日本人はこのことさえも恨みに思っていないように見える。逆に言えば、戦争を終わらせてもらうにはあの方法しかしかたがなかったのではないかと、心の基底で思っているのではないかと思える。
現在の安倍政権の安保法制でも国民の小さな声は届いていない。少数の大きな声とテレビジョンが吠える。
しかし、時代はすっかり変わっている。政権というのは大衆の手のひらの上にいるのだ。握りつぶすも、踊らせるのも人々である。もっというなれば「消費社会の人々」である。この人々が財布のひもを締めたら政権は倒れる。この20年すっとそうだったではないか。
日本はすでに近代資本主義社会を超えてしまっている。それに気がつかないのは、実は法律を作る政治家なのだ。僕はそう思っている。
歓迎のセレモニーのヤンキーたちのソーランの変形というかもっと進化したものが披露された。
天皇陛下を迎えるのに、何がよいか、県職員も市職員も考えただろう。「それがソーランかよ」と僕は思った。
僕はあんまり好きでないのである。踊りは一人や二人で踊ればいいと思っているし、彼らには気迫がありすぎて、技は稚拙ということがある。絆を大事にしていそうである。なんだか情で動いているようにも思える。
天皇陛下は決して知性の象徴ではなく情というものの象徴なのだから、こういうヤンキーたちに景気づけをしてもらいたいと地方の官僚や首長は思ったのかもしれない。
わからぬ気持ちではない。ありがちな選択だと思う。植樹祭でなぜソーランなのかわからない。もっと違う、ファンタジーの世界もあったのかもしれない。あるいは厳かな儀式を作り出してもおかしくはない。ただ天皇陛下のことをおもんばかると、ああいうふうになってしまうのかと、僕らは外野席から思うのだ。
しかも小松市の多くの人が日の丸の旗を振っていた。これは妙に気持ちが悪かった。
このところ、「戦争論」を読んできた。日清、日露、そしてさきにあの戦争をいろいろな人がそれぞれの視点で語る。日露戦争のかろうじての勝利が国民を熱狂させた。その時から日中戦争、太平洋戦争の終結に至るまで、誰に責任があるのか、識者は意見を言う。
司馬遼太郎も半藤一利もここは避ける。国民にあったとも、マスコミにあったとも、政治家にあったとも軍部にあったともいう。時代の趨勢だという人もいる。自虐史観はいけないという人もいる。
僕は統帥権が天皇にあったのだから天皇の戦争責任はあると思っている。天皇が「戦争をやめろ」と言えば終わっていたのだと思う。同じようなことを言った長崎市長は暗殺されかかったが一命をとりとめた。あの事件のとき、日本には「意見をいう自由」というものがないんだな、とつくづく感じたものだ。
ヤンキー文化は「心情の文化」である。そこに客観性や分析知性はないように思える。
みんなで同じ振付をして、下手でもいいから気合いを入れて頑張る、という感じである。それが地方の隅々までいきわたっている。善いも悪いもない。そういう時代になったのだ。
小さな会社なども「気合い」でいくところが多いのかもしれない。以前にそんな相談を受けたことがあった。
中国を「悪」とする風潮もこの頃見える。中国からしてみれば、の視点がない。あれだけ、中国を蹂躙していれば中国も政府代表とすれば、日本との仲をそう簡単にはスムースにはいけないはずだ。韓国もしかりである。
日本は日露戦争の勝利で東南アジアの人々を有機づけたが、その後の振舞が悪かった。
僕の言っていることが自虐史観だとは思わない。戦争放棄に賛成するのを「平和ボケ」だとも思わない。人類が未来に残しえる憲法をもっているのは日本だけだ。それがアメリカ産だろうと、何産だろうと、あの当時の日本人では今の憲法や農地解放や教育の改革などやれるはずもない。
大衆は、大衆にとってよい政府があればいいのである。それでやっていくのである。アメリカ進駐軍がきても案外平気だったのである。人々の噂話のほうが嘘だったのである。「奴隷にされる。女はみな強姦される」などなどである。
そしてアメリカによって原子力爆弾が投下された。日本人はこのことさえも恨みに思っていないように見える。逆に言えば、戦争を終わらせてもらうにはあの方法しかしかたがなかったのではないかと、心の基底で思っているのではないかと思える。
現在の安倍政権の安保法制でも国民の小さな声は届いていない。少数の大きな声とテレビジョンが吠える。
しかし、時代はすっかり変わっている。政権というのは大衆の手のひらの上にいるのだ。握りつぶすも、踊らせるのも人々である。もっというなれば「消費社会の人々」である。この人々が財布のひもを締めたら政権は倒れる。この20年すっとそうだったではないか。
日本はすでに近代資本主義社会を超えてしまっている。それに気がつかないのは、実は法律を作る政治家なのだ。僕はそう思っている。