25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

悪戦苦闘

2019年10月16日 | 日記
 ようやく簡素なホームページも完成し、Super Language Playerは世に出ようとしているが、難産である。ひとつひとつ失敗しながらも、Googleに問い合せては解決していくという風で、銀行取引確認に2、3日かかるというので、それを確認するまで仕事は休みとなる。その間に考えておいたほうがよいことが幾つかあり、ま、のんびりとするつもりではある。Google Play Storeを使って世界で売ることになるのだが、運悪く、トランプとの摩擦によりGoogleが使えなくなっている。今日判明した。
 中国でも売るつもりだったので、あてが外れた格好だ。北朝鮮、キューバ、イランもgoogle は使えない。民間会社も政治の枠にはめられ、迷惑なことだろう。
 ドコモストアやギャラクシーストアなどはgoogl store から編集者が選んでいるのだそうだ。ようするに世にはapple store とgoogle play store しかなく、アメリカのGAFAの2つで占めているわけである。A のアマゾンでも google play の商品を買うことができる。恐ろしきアマゾンである。
 google やapple は今やITインフラでは世界を席巻している。次はそれをどうやって応用するか、ということである。こういう場面では日本列島人も大いに活躍することができると思う。しかし、NTTgaあれほど素晴らしい携帯電話を世界に広められなかったように、機能的であるがゆえに逆にガラパゴス化もあり得るかも知れない。
 中国には幾つかのドコモみたいな会社があり、その上にファーウェイが5Gで網をかけようとしている。なべちゃんからメールがあり、ドコモみたいな会社の代表者が彼のところにくるという。実際に中国ではgoogle の代わりをするのはファウェイ一社なのだろうか。調べてみる必要もある。

 思えば不思議なものだ。ワープロが出てきたとき500万円で買った覚えがある。次に買った時は機能もアップして250万円だった。それからあれよあれよという間に20万円、10万円となり、今やパソコンのアプリになっている。
 ぼくが今回のアイディアを22年前に具現化しようとしたとき、どうしてもソニーのようなハードウェアの会社との提携が必要だった。それがウィンドウズ95が出てき、インターネットが定着し、スマホややタブレットが登場して、アプリ制作ソフトを無料開放したgoogle はぼくのアイディアを具現化するのに3億円も要らなくなった。22年前はそれだけでも足りなかったのだ。この22年の間でソニーのような会社に頼らなくてよくなった。制作費も桁違いに安くできるようになり、プログラマーさえ、しっかりしていれば開発ができるのである。この間の進展みは驚くべきものがある。ぼくは今回のSLP開発に取りかかったときは浦島太郎のようだったが、若いプログラマーと話をしているうちに時間を取り戻したような感覚もある。だが、悪戦苦闘している。最後の最後で、アップロードのところで、である。

 

 

時の流れに

2019年10月14日 | 日記
 昨日は雲ひとつない良い秋晴れだったのに一転夜中から雨が降りだした。安定した良い日は三日も続くことのないのこの8月から今日までである。海岸ある電信柱が傾いていたのを今日見て驚いた。実家の家の庭を囲ってある木が腐っていたのだろう。折れていた。ジャスミンの蔓ごと取り除き、庭に置いてある廃棄物が丸見えになってしまった。捨てよう、捨てようと思っていたのが、台風によって顕にさrwる。
 テレビニュースが伝える台風被害は酷いものだ。日本はどこもこのような危険性があることは来年になればよりはっきりするのではないか。

 最近スクリーンショットという保存方法をスマホ、パソコンとも知り、3Dペイントでそのスクリーンショットや写真に字を書いたり、印を書いて、ここはこうするとかこの部分は削除とか印をしてメールで送る。これがすごく便利である。
 昔だったら絶対に交通費払って、時間を使い、面談してやりとりしていた。
 テレビ電話など遠い遠い先の話だと思っていたのに、今は無料でできる。

 一方で、藤沢周平の映画「花のあと」でみるように、人間の行動の範囲は歩ける範囲までで、その中で暮らし、不便とも思わずに日を暮らしていくことのゆったりさも尊いようにも思う。
 いつもガツガツすることなく、いらいらすることなく、時の流れが遅ければ遅いなりに、速ければ落ち着いて暮らしたいものだ。


 



静かに「花のあと」を観る

2019年10月13日 | 映画
 小田原の友人に電話をしたら避難所にいると、福島のいわき市にいる細君の伯母たちが下の川の氾濫で高台で孤立していると。娘の家は下が暗渠になっているので、噴き出してはこないかと心配し、息子にも電話をしたら「今山形に出張しとる」と。
 この日本列島は環境的にちょっとおかしくなってきているが、来年も起これば、さすがにみな考えることだろう。しかしどこに引っ越せばいいのだろう。どこだったら災害なく暮らしていけるだろう。
 尾鷲が台風のコースから外れるようになった。大雨の移動もコースが変わってしまった。尾鷲にとっては台風シーズンは四国か紀伊半島に来ていたので、幸運なのだが、もっと面的に広く被害を受けるところが多くなった。たぶん尾鷲沖でサンマが獲れないのも関係している。

 いつか来ると言われる南海トラフ、関東大震災。来るならもう早く来てくれよ、と言いたくなる。テレビで一回が全部浸水したり、竜巻で家が吹き飛ばされるのを見ていると、めげてしまうと思う。老人ならなおさらだ。
 雨が終わって大風がヒューーーーと吹いてくるのも不気味なものである。二時間ほど不気味な風が鳴り響いたのだった。

 夜はひとり静かに江戸時代に浸ろうと、
 藤沢周平の映画「花のあと」を見ることにした。もう三回目である。時の流れがゆっくりとして、武家の娘たちの礼儀作法、立ち居振る舞いと四季の東北の景色の中で生きる「糸」という女性の話である。初めは北川景子ばかり見ていたような気がするが、これは正中線をとって座る、立つ、障子を開ける、歩く、ススッと座って前に進む、というような武士たちがいつの間にか作った作法の映画でもある。昼行燈のような婿に入る男(甲本雅裕)も思慮深く、寛容で、よい男だった。どうやらこの男、最後は筆頭家老にまで昇りつめたそうだ。もちろん映画の中で。
 2011年の映画である。初めて北川景子を知ったが、その後まもなくテレビにも出るようになった。主人公の「糸」は剣術も相当なものなのだ。テレビに出てきた北川景子よりこの「糸」の北川景子は十倍、二十倍良い。

 熱い夏。大型の台風。どうにもならん。明治は江戸期までの文明を壊して近代化した。
 昭和の前期は明治の人たちが築いた近代化に驕り、潰してしまった。関東大震災など起こったら、日本の終わりではないかと思う。

 
  

熱狂

2019年10月12日 | 文学 思想
国民的熱狂をつくり出し、国民的熱狂に流された愚かさが満州事変から始まり
降伏するまでの日本人。ただ国民は310万人という死者をだして責任をとったとぼくは言いたい。半藤一利の「昭和史」を3回目、読み終えた。3回読んでも出てくる主要登場人物の名前を覚える気にならない。内閣や参謀本部や軍司令部のエリート軍人達は目を覆いたくなるほどのアホさであった。勉強ができるものも、記憶力が良いものも、学歴があるものも、一様に熱狂によってアホ化することをよく示している。

 日本人は分析をすることが苦手のようである。精神や観念の方に行ってしまう傾向がある。小泉純一郎が首相になったときの熱狂も、その息子進次郎環境大臣が首相候補だと噂されることも、日本人は戦前とそれほど変わっていないことを示すのかもしれない。よく分析してみれば、資源、兵力は英米にかなうはずもなかった。日ソ中立条約を信じきってしまって、米英戦終了の仲介をとってもらおうと、返事をポチのごとくに待つ。その間に、広島、長崎に原爆を落とされる。

 戦争中に日本人が判断し、したことを「なかった」ことにしてしまおうとする言説が未だにある。
 昭和史はをは半藤一利の「昭和史」と 吉田裕の「日本の兵士」、それと吉本隆明の「戦争論」を読んでおけばよいと思う。ゆめゆめ、北朝鮮や韓国にたいして熱狂的にならないのが現在のぼくらがとるべき態度である。

 こんなことを書いているうちに台風が東の海を通りすぎていった。
 

台風で

2019年10月11日 | 日記
 台風のために、庭のテーブルや不要な鉢や壊れた庭園ライトなどを取り除き、すっきりとした。実家の方も水が入ってこないように仕切り板を取り出しておいた。土曜日は貸別荘に客が来るというので案じていた。昨日は俄然張り切って来ると言ったが、高速がストップになるかもしれないですよ、と言ったら、翌日、キャンセルのメールが来た。今日は早速雨戸を閉め、庭の片づけをしなければならない。台風の被害さえなければちょうどよい具合に庭の整理ができたと思っている。

 必ずと言っていいほど、台風や大雨で命をなくす人がいる。ちょっとした不注意。ちょっとした偶然。あっと言う間に木から落ちたり、屋根から落ちたりする。

 千葉の被害者の方たちの様子を見ていると、同様のことが我が身に起これば、捨ててどこかに行きたいほどであるが、捨てていけないというストレスがある。これは相当にきついストレスだろうと思う。

 ということで、今日は車のガソリンを満タンにし、スマートフォンもフル充電にしておき、懐中電灯を手元に置き、風呂に水を貯めておき、水嚢を作ってトイレを塞ぎ、くらいのことはする。

 世界は混乱のさなかにあるが身辺のことにぼくらは対処しなければならない。その日、その日をなんとか生きていくのがわれわれ大衆であり、大衆を犠牲にして上の者が責任をとることもなく戦争を始める、あるいは自称エリート(前衛)が大衆をリードするはずなのに、大衆を殴り、撃ち、蹴散らす。
 まあ、今日はこんなこと考えてる暇はないわい。

不発弾

2019年10月10日 | テレビ
デリバティブ、リバレッジ、損失を海外に飛ばす、仕組預金や仕組債 わからない金融用語が飛び交ってくる「不発弾」という Wowow のテレビドラマのDVDを見た。金融コンサルタントを演じる椎名桔平、その恋人に原田知世、不正を感じ取り椎名を追いつめる黒木メイサ役の警視庁管理官。
 東芝を想定したようなドラマだった。金融コンサルタントは大手の企業から信頼され、重宝されていた。金融工学の生み出したものなのだろう。相場英雄の小説『不発弾』(新潮文庫刊)が原作だからこの小説を読めば、もっとなまなましく金融用語がわかるのかもしれない。ネットで検索もしてみたが、ぼくの頭ではわかりにくい。想像しにくい。

 いつもお金というのは不思議なものだと感じている。仮に1億円の借金をAが抱えている。これは1億円の債務で返さなければならないものだ。逆に銀行は債権者で、このお金を撮り返したいはずだ。ところが債務者にはお金がない。債務者は一向に借金は減らない。利息も積もっていき、ますます返せる可能性は低くなってゆく。銀行の帳簿にも、この取り立て不能な厄介な数字が残っている。この不都合な数字を帳簿から消してしまいたい。

 債権回収会社の5%でこの債権を売ってしまおう。他の不良債権とも一緒に売ってしまう。そうすることで銀行は帳簿からこの不良債権を消すことができる。5%でいくつもの債権を買った債権回収会社は、その中でひとつかふたつ担保のあるものでもあれば、その担保の不動産が化けるかもしれない。もしかしたらその土地を欲しい人がいるかもしれない。高速道路に必要となるかもしれない。

 債権回収会社はAにも返済を迫ってくる。Aは債権回収会社が5%で買っていることを知っていれば、50万円で借金の買い取りを交渉できるはずだ。それでもそのAの債権が回収されない場合、次の債権回収会社に売られる、やはりこれも5%だとする。すると、2万5千円が5%の額である。

 このようなことくらいはわかる。だから日本では借金があるからと言って「一家心中」などする必要はないし、憲法では「生存権」も定められている。借金を払えなくなったら死になさい、とは書いてない。

 デリバティブ、リバレッジ、損失を海外に飛ばす、仕組預金や仕組債。これらが具体的にどのようなものであるか知りたい。知りたいのはドラマ会話でわからないことが出てくるとイライラするからである。
 ぼくはこの金融商品とは一切関係ないし、興味もない。
 ドラマの主人公は貧しい炭鉱町で育ち東京の証券会社に入った。ある出来事を機に欲深い人間たちへの復讐を始め、証券業界ひいては経済界の影の立役者にのし上がっていく。このドラマは面白かったのだが、最後の原田知世の裏切り行動がわかりにくい。



 

縛り

2019年10月09日 | 日記
2010年にこんなことを書いていた。

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縛るもの・2010年06月29日(火)
 時計の電池を入れ替えてもらった。「これはブランド品ですから、壊したらいけませんので時計店でやってもらってください」というのを「壊れてもかまわんからやってください」と言ったら、やってくれた。壊れることはなかった。
 これでひとつ片付いたと思ってすっきりした。鎌倉時代の時宗を起こした一遍上人は「家も持つな、何も持つな、おのれを縛るだけである」という風なことを言ったが、そうだよな、でもできないな、と思う。
 店はカードを持たせて縛ろうとする。カード会社に入れば縛られる。落したり盗まれたら面倒だ。病院は診察券。車は免許証。七月一日が更新のための講習日だ。携帯やカメラをもてば、バッテリーだ、なんだとなる。車は車検がある。
 愛犬をもてば餌がいるし、管理がいる。なんでもかんでも「縛る、縛る、縛る」である。
 できるだけ物は持たない生活。いわば死が近づいてきたら身奇麗にして、思い出の写真一枚ぐらいもっていればいいな、と思う。

 体が病気を起こすと体そのものに縛れられることになるしなあ。う~ん。
 お金は使ってしまえばいいので、縛らないなあ。預けたら縛られる。やはりお金は魔力ではある。
 異性は互いを縛ることになる。

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 どうも9年前は「それでどうするの?」ということを書いてない。今やキャッシュレス、キャッシュレスとカードでの取り込みをしようとカード会社は大きな資金をかけて勧誘している。それやあそうだ。消費者が消費すれば、店から1.5%とか3%とかなにもせずにお金が入ってくるのだ。
 ぼくはこういう商売は「あこぎな商売」だと思っている。もうひとつ関係者には悪いけど、金融マンも「あこぎな商売」だと思っている。これが資本主義の特徴でもある。

 愛犬は死んだけど、今度は金魚とメダカを飼ってそれに縛られている。
 94歳の母親を見ていると縛っているものが使えなくなってきて、最後の体そのものに縛られている状態だ。別に昔のアルバムを取り出すのでもない。昔作った短歌を読むのでもない。
テレビの音がざわざわしているのが落ち着くらしく、静かな孤独は嫌みたいだ。よく薬を飲んでいた。薬からもだんだんと解放されてきている。便秘の薬も飲まなくなったし、睡眠剤も飲まなくなった。そういうのを見ているとだんだんと捨てるものは捨て、使っていたものを使わなくなり、ぼくも流れに任せてそうしていくのだろう。


脅迫

2019年10月08日 | 社会・経済・政治
川上未映子という作家について少し解説しなければならないので、ネットでいろいろ検索して彼女のことを調べている。彼女には公式のサイトもある。大阪の高校を卒業し、弟を大学に行かせるために、自分は大学進学をやめ、働く。やがてバンドを結成して活動するが、売れない。バンドからの影響のせいか、詩を書くようになった。詩が認められ、続いて小説を書き、芥川賞を受賞した。

 彼女のメッセージを読んでいると、脅迫を受けていることがわかる。多くの人がいる前に出ることを警察から自重してほしいと頼まれるらしい。万が一テロにでもなったら、と彼女も思い、同意している。彼女くらいなら自分は死んでもよい、とくらいは思っていそうだが、自分ではない人が自分のせいで死んでしまうというのは許されることではない、ということなのだろう。

 ぼくは川上未映子の小説は男ではとてもわからないことを書いていて、不思議な感じがするのだが、明治期に樋口一葉という作家が出てきて、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などで、明治期の女性を吉原の近くにあった家で描いた。森鴎外からの評価は高かったが24歳、肺結核で死んだ。

 川上未映子と重ねるわけではないが、川上未映子は樋口一葉から影響を受けている。

 ぼくはとくに川上未映子を読んでいこうとは今思っていないので、話を「愛知トリエンナーレ」の話に移す。愛知県の大村知事をぼくはみなおした。自民党には逆らわない知事だと思っていた。萩生田大臣の狭量さには「やっぱりな」という感想だった。とにかく三日間でも警備体制などをきちんとやってテロ脅迫に最後は屈しなかった。政府はテロ脅迫に屈した。
 日本は5.15事件、2.26事件で文化人がすっかり萎縮黙してしまった。テロを受けることは恐ろしいことだ。
 現在の日本は忖度政治になっていて、独裁的な要素を多くもった国家になっている。香港で発せられたのと同様の緊急事態法は日本も持っている。
 経済が落ち込めば政権が代わるという法則が日本にはあるから、まだましではある。日本の政権は消費者の掌で動いているということがわからないらしい。至極当然の浄化作用をもっている。香港には強大な共産党国家が網を敷いている。
  

知っていることと教えることは別

2019年10月07日 | 文学 思想
 ウインドウズ10から更新プログラムのお知らせがきて、今すぐ再起動か、夜間に再起動か、見合わせるのか、という選択肢があっていつもは夜間にしていたが今日は何を思ったものか、「今すぐ再起動」をクリックしてしまった。それでも5分もかからないだろうと思っていたら、どうやら時間がかかるようなのだ。朝の仕事ができない。困ったことだと、パソコンの前で待っている、すでに60分が経っている。何分くらいかかりますと、知らせてくれていいはずだと思う。
 まあ、支配する側はこんなものかと思う。

 話は飛ぶが上記のお知らせができないのはなぜなのか、と考えていたら、ふと思ってしまった。知っていることと、教えることは別物である。英語で言えば、To know is one thing, to teach is another. である。よく知っているからと言ってそれがよい教師になるわけではない。よくあることだがよく知っていて、理解することにも苦労しなかった教師は「生徒がわからないということがわからない」のである。

 あいうえお・・・の五十音とABCD・・・のアルファベットの名前は性質が全く違うものである。日本語は「あ」は名前も「あ」で音も「あ」である。ところが英語のAは名前が「エイ」で音の基本は「ェア」、きゃあと叫ぶときの「ェア」である。この不思議な世界を英語の習いたての時期、うまく先生に教えてもらわないと英語でつまづく原因にもなる。多くの生徒はとにかく覚えるしかないと決めて、読み方、書き方、挙げ句のはてに、アクセントの位置までも覚えなければならなくなる。

 「英語教育」という権威主義っぽい月間誌も、何の役にも立たない。NHKなどのテキストもよく英語を知っている人がテキストを作るので生徒にとってわからないところがわからない、というのはお決まりのいわば普遍性である。

 英語圏からやってくるALTも五十音とアルファベットの違いをうまく言えるわけではなく、ここは英語などそもそも教えることのなかった小学校教師の出番である。
 これまでの先生は平気な顔で「単語」という言葉を使った。

 This is Taro's shirt.
これは太郎君のシャツです。

 英語の文と日本語の文を並べてみて、互いに何が違うのあ、どこか共通しているところがあるのか、教えてもらったこともなかった。
 子供はいろいろ違いを述べる。
   1.字が違う。
  2.終わりの。と. が違う。
  3.英語の方に'のがある。
  4.英語は This というかたまりがあって、次に少し間を空けているが、日本語
    は一字一字間が少し空いている。
  5. 英語には大きな文字と小さな文字がある。
  
 まあ、このくらいは出てくることだろう。まだある、という生徒もいるかもしれない。ここで、ぼくらは初めて「単語」という言葉を教えられる前提をもつことになる。
 こういうことが「わかる」人って実に少ないことも経験上よくわかる。

 








Green Book

2019年10月06日 | 映画
 この3年の間での映画ベスト3を選び、ブログで公表したのがほんの3日前。ところが「Green Book 」というアメリカ映画を見てしまった。細君が借りてきた映画だった。10分観て、つまらなかったら自分の部屋で別の物を観るから、と前置きをしてその映画を観始めた。これがなんととても良い映画だった。これは3年の間でベスト1だとも思ったのだった。終わってから細君に訊くと、去年のアカデミー賞作品賞だ、という。
 アメリカってこういう映画を作る。この点にアメリカの良さを感じる。日本ではこの種の映画は作れない。たぶん中国も作れない。
 才能溢れ、ホワイトハウスでも演奏した黒人のピアニストが1962年に、南部でのコンサートツアーをする。その時に、イタリア移民の主人公に運転手を頼むのだ。彼は喧嘩も滅法強く、教養はないが、妻と子供たちをとても愛している。2ケ月のツアー中でも、下手な文で愛しの妻にせっせと手紙を書く。あまりにも下手くそで、時間がかかるので、主人たる黒人ピアニストが手紙の中身を口頭で教えるのである。
 彼はイタリア人でも白人。ピアニストは北部で有名で、ロバートケネディとも親密な関係なのに、黒人。1962年当時は差別が依然として激しかった。
 映画はその差別を描くものではない。
 教養なく、マナーのないイタリア移民男とインテリで、インテリから尊敬されるが、南部では差別され、北部ではお城のような御殿に住むピアニストとの心のやりとりが見物なのである。
 これは間違いなくとても優れた映画なので、お薦めする。何よ、今頃、と言われるかもしれないが。
 このような映画に出会うと、「寂しいときは、自分から先に手をうたなくちゃあ」と思ってくる。これは映画のセリフだ。

映画ベスト3 この3年

2019年10月04日 | 映画
 クリント・イーストウッド監督・主演の「The mule(運び屋)」DVDで観た。 よい映画だった。クリント・イーストウッドtが90歳の実年齢で演じた。
 ストーリーは百合の農場がつぶれてしまい、農場も家も差し押さえられたところから始まる。外でかっこよく成功したいと思い、家庭をかえりみない勝手な男で、退役軍人でもある。
 唯一慕ってくれる孫娘のパーティーで、男に話しかけられ、自分は運転違反は一度もしたことがないことを言ってしまった。それを聞いた男は金になる仕事がある、と言って、ある場所に行くようすすめるのだ。それが麻薬運び屋の始まりである。
 奇妙なのは、平凡なストーリーなのに、イーストウッドのあらゆる動作、仕草
や表情、セリフに釘付けにされることだ。90歳の男優が主役を演じ、監督をする、というエネルギーに惹かれるのだろうか。あと20年もしたら彼の歳に近づく。20年先まで生きられないかもしれない。そういうことも思うのかも知れない。
 彼の映画はいつも大団円で終わったり、ハッピーエンドというのでもない。観客の気持ちをずらすところがある。
 クリント・イーストウッドは凄い男だ。
 「スリー ビルボード」が直近ですばらしい映画だった。今回のはそれに匹敵する。「ライフ オブ パイ」。ここ3年ではこの3作品がぼくのベスト3である。

物はほとんどは持っている

2019年10月03日 | 社会・経済・政治
日本語版と英語版の2種を切り替えできるホームページを作っている。驚いたことに、Google の翻訳ソフトにGrammary ソフトも使えば安心感ある英語の説明ができあがる。
 まず、自分が説明したい文を日本語で打つと、英語に変わる。それを読むと、フムフムとなり、よくできているなあ、と感心する。英語の方に手を加える。完成に近づけるためだ。エキサイト翻訳を使うとまるで無茶苦茶な英語が出てくるがGoogle は相当正確である。またgoogle に感心する。

 今日の新聞広告に朝日新聞が創刊140年で、豪華賞品があたるキャンペーンのお知らせがあった。1400名に当たるそうである。豪華賞品の中に74言語対応のAI通訳機「ポケトーク」というのがあった。なんだか触って使ってみたくなった。尾鷲のエディオンかケーズ電機にあるかもしれない、と思い、見に出かけた。ケーズは休みでエディオンにはなかった。ポケトークあたりでどれほどの言語を理解するものか。
 ぼくは台湾語はできないから、Koさんと話すときに、ポケトークがあればより会話もスムースになることだろう。難しい話を翻訳してもらうつもりもない。いわゆる「指示表出」のみになることだろう。AIが「自己表出」言語まで理解できるようになるには、あるいはAIが自分の言葉で「自己表出」言語と「指示表出」言語を織りあわせた言葉を発するとは考えられない。

 エディオンには多種多用途な電器製品やデジタル、IT製品がならんでいる。ぼくはづでにスマホ、タブレット、パソコン、プリンター、テレビ、掃除機、洗濯機、冷蔵庫、ドライヤー、布団乾燥機、オーディオ、電子レンジ、ガスレンジ、オーブン、エアコン、炬燵、扇風機、炊飯器、電器ポットはすでに持っている。細君はカメラを見ている。撮るとすぐ現像された写真が上からでてくるカメラなのだ。これはいいわ、と興味津々である。だが、店の迂闊なことには本体の値段が見当たらず、付属品の値段ばかり貼ってある。「店員に訊くかい?」と言うと、「いい」という。店員を呼ぶとうっとうしいことになるかもしれない。勧められたり、断ったり、考えたり。

 もう必要な物などない。それぞれが壊れるまで使い、そうなれば買い換えるだけである。人口も減っていることだし、消費力がアップするはずもない、と思う。


眠たくなる

2019年10月02日 | 
 今度はGoogle Play にアップして販売するために、ビデオを撮らなければならない。プロに任せるということもあるが、機能がわかればよいだけである、と考えると、自分でやろうか、節約根性が出てくる。ビデオを何度も失敗して、ついに「これでええか」と説明的に許せるものを撮った。センスもなにもあっものじゃない。
 それを尾嶋さんに送った。 Google play を見ていると左に動画があり、右2枚は写真である。動画にはタイトルがあり、そこをクリックすると、You Tube に飛ぶようになっている。タイトルかあ、作らんといかんとばい、となり、尾嶋さんに電話してみたら、「自分は動画はやらないので、わかんないっす。ウィンドウズ10ならビデオエディターが入ってるから。それでやってみたら」とつれない返事だった。
 で、ビデオエディターを開いてみたらなんだかわからない。腰据えてやらんとあかん。

 すぐにあきらめて表紙のようなものを作ってそれをカラー印刷して、そのまま本編に突入していくようにした。格好がつけばええわい、と表紙も一緒に再度撮影して You Tube に入れ、リンクアドレスと埋め込みコードを尾嶋さんに送った。
 当分しかたなかろう、と思っている。やっぱり、IT系はイラつく。

 もうひとつイラつくことがある。夜は早めに眠くなり、読書量がすっかりおちこんだことだ。横になるとすぐに眠くなる。そして日によっては3時間くらいで目覚める。5時間のときもある。その後の睡眠は浅く、夢ばっかりみる。夜中の3時頃まで起きていた頃とはずいぶん変わったものだ。11時に寝て7時に起きる、11時半に寝て、7時半に起きる。
 これぞ、よい生活感なのだが、寝る前に眠たいのだけは大弱りで、困っている。酒の量を減らすか。テレビをみるのを減らすか、読書の時間を変えるかしかない。







コンピュータ教室に通おうか思案

2019年10月01日 | 日記
 以前のメールアドレスが復活した。閉じたはずだったgmail アドレスだった。それが復活して開けてみると1万5千通ほどのメールがストックされていた。DMもいっぱいある。恭くんからのメールもあり、エステ関係の生徒からのメールもある。相談事などもあった。悪いことをしたなあ、と思いながら、50通残してあとを消すのに6時間かかった。
 コンピュータの知識がもう少しあれば、といつも思う。ごそごそとやっていると大事な書き物を消してしまったり、わけがわからない迷路に入ってしまったりで、難儀する。
 最近スクリーンショットというのをスマホで知った。尾島さんなどはそこに赤い線で、〇を描き、ココ、などと書いてくる。ココが間違っているよ、ということである。
 パソコンでホームページもスクリーンショットができるはずである。だがやり方がわからない。やりとりをするときに、「ここをこう直してくれ」、とか「ここにこれを挿入してくれ」とやりとりがやりやすいと思う。
 それでパソコン教室に通おうか考えている。地元で教え子が教室を開いている。今度はぼくが教わる番だ。

 ファーウェイのスマホにGoogle が入らなくなる様相であることをニュースで知った。Android とは違う、独自のモバイルOSを作るのだろう。なにせ14億人いるのだから、それも可能であろう。するとぼくの開発したアプリはこれまでのファウェイのスマホなら動かすことができるが、Google がストップになったら、使えなくなる。するとファーウェイとコンタクトをとり、ファーエイのモバイルOSで動くアプリにしなければならない。この辺のことをファーウェイはどう考えているのか知りたいが、どうやって知ればいいのか、わからない。アメリカと中国の貿易交渉、覇権争いは日本列島にある紀伊半島の隅にある小さな町に住むぼくにまで影響を及ぼしてくる。
 日本のファーウェイ事務所に行ってみればいいのだろうか。
 このようにちょっと社会参加の一歩を始めると、考えなければならないことも増えてくる。
 ただ、生活のルーティンは変わることはないだろう。働くのは午前10時から12時まで。朝、昼、晩、には母親の食事を作る。昼からは曽根の貸別荘の掃除や草刈り、マックへ行ったり、買い物したりする。夜はテレビを見ながら酒を飲む。時々歌を歌って、毎晩本を読む。

 また雨が降ってきた。台風の影響なのだろう。今回の台風も日本海の方にいくようである。台風の道さえも変わってきた感がある。千葉県への上陸も全くないことであった。尾鷲市はここ十年、台風に襲われることなく、大雨で災難があることもなく、なんだか、台風、大雨コースからも外れてしまったようである。油断していると危ないから、天気予報はこまめに見ている。しかしまあ、天気予報の一週間前や五日前の予報はなかなか当たらないものであることもこの頃知った。民泊のおかげである。