南の島の土着民風自由人

自分の生活、計画し実行してきましたが、病気や人間関係など思いがけない障害に遭遇しました。

(^_-)-☆雲泥の差の結

2010-12-16 23:05:17 | 知識

   Photo AlbumのURLを変更しました。

http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage229.html

この会社も、いま他の会社と同じような状態になることは予測できます。現在の仕事は勿論私が全部お客さんの要望に答えたものです。原料にしろ、金型にしろ、すべて私が決めたものです。作ったものです。それに従って価格も日本価格の60%以下で提供しています。今の製品だけなら既に安定期に入っています。私は何もすることがありません。登場する必要がありません。こういう状態で私の後の人は引き継ぐのです。

 

システムは整い、製品も安定して出来ていて利益を上げている。予備の機械や金型も新しい製品の試作を出来るように準備もしてある。何が、不足だろうか、不足している物は何もない。この後は、何をすればいいのか、分かり切っています。客先からやってほしいと依頼された製品を作ってあげることです。本当は、安定してからでは遅いのです。安定する以前に新しい話が始まり、安定前に金型や原料の準備をし、試作が始まっていなければならないのです。それを、次々と繰り返し、会社は成長するのです。もし、それが出来るなら、止める必要などありません。そうすればいいのです。もし、新しい製品の試作が無くなってしまって、成長計画が止まってしまった押出成形会社は、技術がないし、挑戦心が無いのです。そこで終わりです。インドネシア人が技術を持っていて挑戦心があっても、日本人が持っていなければ、同じことです。

 

既に書いたように、私が手伝った会社の全てがそうでした。

 

冒頭に書いたが、何もないところへ来てゼロから始めた私に比べれば、環境は雲泥の差です。私の時ゼロだったものが、私がいなくなるときには、至れり尽くせりの、規模は別にして100になっているのです。バランスの良いた多角形になっているのです。後は、その多角形を相似形で大きくして行くだけです。その多角形の一つの頂点が技術力です。技術さえ持っていれば、ほかの頂点は自然についてきて綺麗な多角形を保ったまま大きくなります。こんな簡単な仕事は無いはずだと思うのですが。他のことは何もしなくていいのですから。

ご健闘をお祈りしたい。

名古屋市長が議会解散の署名運動したその署名が、何故無効されたのか、それが、簡単に再審査をすることになり、何故有効になったのか、そのことについてNHKのニュースの中で全く触れていない。NHKの人はそのことに無関心なのでしょうか、知りたいと思わないので、知らせたいと思わないのでしょうか。私は、そのことが一番重要だと思う。

勇気  決断  能力

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(^_-)-☆雲泥の差の展

2010-12-15 23:06:21 | 状況

    日本からのお客さんに久しぶりにお会いした十何年か前からのインドネシアでの知り合いで、この7~8年前に日本の本社の経営に参加し、中国を中心に忙しく駆けずり回っている人ですが、今回、インドネシア工場に立ち寄ったそうです。私から久しぶりに電話をしたところ、今、インドネシアにいるから会いましょうということになった。パンガンダランなどにも一緒に出かけた方です。ムラピ山の麓、ムラピゴルフでも一緒にプレーさせて貰ったこともありました。
 新展開が生まれるかもしれない。
私がその場から消えた後のこと、なぜ消えるかというと、その場に、消えてもらいたいという空気が漂うからです。私がいにくくなるのです。私がいることをよしとしない雰囲気になるからです。多くの皆様にとって、考え方や行動が違う上に、部下に対する影響力が大きいことも認めざるを得なくなり、自分たちの立場が無くなると危機感を感じるのです。私が、仕事をやり過ぎるのです。部下の面倒を見過ぎるのです。それに、同調できないからです。
 東洋プラスチック精工、フジプラ精工、PT,KITAGAWA,PT.AFMIなど、私が手伝った会社は全てそうでした。最初はよくやってくれると認めてくれますが、そのうち、深入り過ぎて、厄介者になるのです。存在が煙たがられるのです。やっていることは私が正しいし、皆さんより多くの点で能力が高いし、スピードも早い。使って重宝なのですが、逆に私に批判されているような被害者感覚になり、逆に、私を攻撃するようになる。大げさに言うと、戦国時代の武将がキリスト教を最初は情報を得たり、支配するのに便利に使っていたが、そのうち、自分に従わなくなるという危機感に落ちいり、排除した、迫害したのと同じ理屈です。
  

私は、その攻撃に対し、反論はしない。理屈ではなく、感情的になってしまっている相手に反論すれば、ギャフンと言わせるか、強力な陰湿ないじめに発展してしまうかどちらかである。そういうことが、何回かあった。
 私は、その場から遠ざかる方法を取る。その後のその場所はどうなったかというと、私が作り上げた仕事を継続してやるのだが、それ以上にはならない。現状維持がやっとの上に、収率が悪化するので、私がいた時のような儲けにもならなくなる。そして、その後は私がやっていた部門については全く発展しませんでした。新しい仕事を取れないし、従来からの仕事が終われば、萎むばかりでした。

例外は私が太田化工をやっていた時の私の意志で採用して、技術や経営を教えた二つの会社、静岡の太田化工と沼津のセピックという会社は大きくはならないが、堅実に後をひきついでもらっている。利益も、客先も無償で与えた。完全に自立している。地道な技術開発が彼らの武器だからである。

この会社の射出成型大型と中型射出成型機。
 地道  身を引く  譲る

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(^_-)-☆雲泥の差の続

2010-12-14 22:43:06 | 状況

     そこで、新しい製品の話が舞い込んでくるたびに既成の装置では出来ないことが分かるようになってきたことをきっかっけに、それぞれの樹脂、製品の形状に毎の成形方法を編み出さなければならないことに着目した。押出成形をはじめてから、一年以内には、新しい仕事の開発に取り組んだ、というより、新しい仕事が次々と舞い込んできていたので、それぞれの製品の製造方法を開発しなければならないようになった。私の仕事は自身、やりがいを感じるようになっていた。それはサラリーマン時代のことだったが、新しい製品を作って客先のOKを貰い、量産に差し掛かった頃、私は、その製品について関心が無くなった。というより、また、新しい製品に取り組まなければならないので、以後のことは、上司やQCや検査の専門家に頼み、作業標準書以降の手順書、標準書についてはお任せをした。そういうところまで、私は口をはさむことは無かった。それらのことについても、私がやればもっと早く確実にできると思うが、それは、他の人の立場を尊重した。私にとっては、どちらかというと、どうでもいいことでもあった。

 書いたように、私が作った装置や製品についての改善、改良についても、とやかく言わずに、お任せをして、それらの人なりに満足感を味わってもらうようにした。また、そういう余地を残してあげたと言ってもいい。そうとは知らずに私が作って製品にした装置にいろいろ欠点を指摘し、改善をして、提案などを出して、検証されたりした人も多かった。

 

技術を伝える相手の内インドネシア人は選べるし、だめだと思えば選び直すことが出来るが、日本人については選ぶことはできず、派遣された人を対象にするしかないが、これが、どうにもならない人ばかり、私に選ばせてほしいと頼んでも受け入れられない。結局、日本人に技術を伝えることはできない。そして、その人たちは、私が空虚だと思う、手直し形の仕事しかできないし、効率も悪い、場合によっては、仕事が出来るインドネシア人の足を引っ張ることになる。自らは出来ないことをインドネシア人にやるように命令する。そして、それに、気がつかない状態を引きずり、出来ない人間がインドネシア人の評価をすることになる。滑稽な状態になってしまう。

 

そういう人たちの新規の製品の引受ける勇気も自信もないので、その職場では現状維持である。部下に任せる容量もない、部下に任せて出来なかったとき、尻拭いをする自信が無ければ、部下が出来ると言っても、断ることになる。

 

 ソロの東方向の山の中のヒンドゥー遺跡チャンディスクーの像、その時の人が、真面目に何かの目的で作ったのでしょうが、目的は何だったのでしょうか。

 

 可能  任せる  そこまで

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(^_-)-☆雲泥の差の序

2010-12-13 23:05:10 | 習慣

    私が赴任した時は、工場はまだない、従業員もいない、装置もない、仕事のあてもない、インドネシアには何もない、その世界の中で私の仕事は始まった。エンプラの押出成形の技術をインドネシア人に伝える仕事です。

 振り返って、私が、押出成形に出会ったのは、ドイツから輸入した装置に出会ったときからでした。大学を卒業したばかりの張り切っていた時でした。それを使いやすく改造することから始まった。それは、私の各転機、その場での仕事が終わろうとしているときに、後を継ぐ人がやることと同じだと、今は、思う。 他人が作ってしまった装置で他人が作ってしまった製品を、その装置の不足点、その製品の不満足点を見つけ出し、改善を加えるのです。創造的ではない、ただ、一種の荒捜しような感じがした。収率を上げても、使いやすくしても、寿命を長くしても、作業を単純化しても、所詮、後追いですし、借り物の装置や製品をいじっているだけであり、独創的なものが何もない。

 こういうことは、私がやらなくても、時期が来れば誰でもやることで、誰もが、そうしたいと思うし、ちょっと、手柄を主張したい人が思いつくことです。嬉しくもなんともなかった。充実感が得られないどころか、空虚な感じがした。

 

 ギックリ腰がまだ尾を引いている状態でゴルフでした。オリンピックは一人負け、意気消沈しながら帰る途中、いつも通る果物屋でドリアンを仕入れた。タイからの輸入ドリアンです。手前のカートンケースの中身です。

 

 無し  未開  後追い

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(^_-)-☆お膳立ては整えた

2010-12-12 22:34:52 | 環境

    この会社の押出部門は既に利益が出ている。環境も整っている。人材も組織もISO体制も生産品目も整っていて、私以外の日本人がいなければ、かなりの利益を上げ出している。私が間もなく抜けるので、その分も利益になる。インドネシア人だけで、運営できるようになっているし、他のものは必要無いようになっている。

 話は、前日からの続きですが、仕事を増やすことです。そのための人は必要です。私がいればそれをしますが、キタガワの時もアフミの時もそうでしたが、私がいなくなってからは殆ど新しい仕事は増やせなかったし、増やせても、とんでもなく安い見積もりでしか取れていなかった。

日系企業でもローカルでも、押出製品を輸入して使っている会社はまだまだ、沢山あります。私が頼まれたことがあった製品だけでも数社、二十品目以上あります。新製品の立ち上げが出来るかどうか、それが、できるかできないかが自立のポイントです。

 

 日本で作っている製品を丸ごとこちらへ移して、安いコストで、生産するという、親会社のおんぶにだっこを頼るなら、それはそれで、会社の考え方として、あると思うが、もし、押出の技術者なら、インドネシアのお客さんを獲得してほしいものです。それも、客先の希望価格で出来て、なお且つ、こちらも十分な利益を上げるようにしなければならないと思う。

 それは、新しい押出製品製造の作業手順書、作業標準書を書けることまた書きかえることが出来る、それが必須条件です。

私は、10年以上前から様々なお客様の要望にお応えしてきた。それも、すべての製品でしっかり利益を上げて会社に貢献したし、客先にも日本からの輸入価格の60%位で提供してきた。何よりも、インドネシア人に、それらの新しい製品を通して、新しい製造技術を伝えてきた。そういうことが出来て始めて自立だとおもう。インドネシア語でMandiriです。この会社は一年未満といる期間は短かったが、既に部門は黒字になっているし、価格的にも客先に貢献している。

 

 充実した押出ラインで生産中、簡単な金型なら作ってしまうことが出来る金型製作コーナー

 

 技術  貢献  余裕

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(^_-)-☆厄介なフラッシュでした

2010-12-11 22:41:09 | 行動

   フラッシュの接続が出来なくなって三日目になる。以前も同じことがあった。その時は、電話会社のコンピュターが、私が接続し続けていると認識し、200時間近く使用し続けたことになってしまっていた。今回も、同じことが考えられるので、電話会社へ行って、確認してもらうことにした。接続できなくなって既に三日ですから80時間ほど、使いっぱなしということになっている可能性が高い。何千円もの消失である。いかにもインドネシアらしい。

 これに懲りて、モデムを変えることにした。TELKOMSEL Flash 3G HSDPA USB Modemこれで、APN IM2を選ぶと一か月に二千円弱でネット接続使い放題になる。是の方がはるかに経済的だし、私の住みかではこの方がローディングも早いこともわかった。

 

結局、今まで使っていたフラッシュはキャンセルすることにした。今日キャンセルしないと、自動的に延長されてしまって八千円ほどの無駄な支払いをしなければならなくなる。今までも残り時間は消えてしまうが、もう、いらない。

 

今までは事務所にいるより現場にいてトライをしたり、作業手順を教えたり、オペレーターと雑談したり、仕上げの仕事を手伝ったり、とにかく、立って仕事をしていることが多かったが、今は、出来るだけ、現場へは出ていかないようにしている。私が現場にいるより、いない方が諸々のためにいいかなと思うからである。事務所で坐って、計算機をいじったりモニターに向かって独り言を言ったりしているより、私がいない現場に出ていってオペレーターに直接指導をしてほしいからです。

 

データより、見て、触って、直接話をして、判断をしてほしいのでが、どうも、違うらしい。出来てしまっている物をいじっても新しい仕事は増えない。全く新しい仕事に取り組まなければ仕事は増えない。自立は遠のくでしょう。頑張ってほしい。

再びオーストリアのインスブルックの町中と日本食レストラン

ネット  パケット  現場

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(^_-)-☆予定は未定にして

2010-12-10 23:06:06 | 状況

     日本での年末、年始のゴルフの日程が決まった。ここ十年以上、毎年繰り返されている催しである。その時、また、いろいろ話を聞かせてもらえる。楽しみである。二回の予定だが、三回になるのが通例である。現実から離れてゴルフを楽しむストレス解消の一助になるといい。

 私の居場所が決まったことは書いたが、それが、実は、95%位の確かさで、5%は変わる可能性も残されている。来年の一月初旬までに、まだ、何人かの日本人とお話をして了解を取らなければならない。其の、成り行きによっては、方向が変わる余地がある。はっきりさせたいが、人間関係というか、しがらみというか、いろいろあるのです。迷いはふっ切ったつもりでいるのだが・・・どうなることでしょう。

 

 この会社とは二週間を残すだけ、私の電話、ハンドホーンは私が買ったものだし、電話代も私が払っているが、なぜか、電話の所有者を会社にしてしまった。多分、総務が会社で電話代を負担しやすいように名義を変えてしまったのでしょう。それに気が付いたのが今月初めでした。その名義を私に戻してもらう、といいたいが、どうも、外国人が個人で月払いの契約は出来ないらしい。そういえば以前もマリアさんの名義になっていた。そこで、総務の女性の名義に変えてもらって、料金の請求を私に住所にしてもらうことにした。電話番号を大変気に入っているので、ずっと、この電話を使い続けたい。

 

それとは別の話で、その他に会社とのかかわりは何もない。会社から与えられている物、使わせてもらっている物、給料以外に支払ってもらっているものはないので、返還する物は無い。返すのは作業服くらいのものか。逆に返してもらうものはある。車はタダで会社へ貸しているし、プリンターやラップトップは返してもらうが、沢山の工具類、金型類は返してもらっても仕方が無いので、そのまま、寄付をする。どの会社の時も離れるときはそのようにした。

書類も書物もそのまま置いておく。すっきりしたものである。そして、そのまま、インドネシアに残るにしても、何も困らない。余計なものもないし、足りないものは何もないのです。

 

どういうわけか山の中のヒンドゥー寺院に大亀のテーブル風の彫刻置物。

 返還  探し物  寄付

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(^_-)-☆散々な渋滞でしたが

2010-12-09 22:28:38 | 試練
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(^_-)-☆散々な道でした

2010-12-08 22:12:10 | 環境

    今回の旅はかなり厳しかった。パンクが二回、一回目はバンドンの高速道路で大きな石を跳ねてしまった。路肩で交換、高速道路を出た処のタンバルバンで修理をした。二回目はどこで、刺さったのか分からないが、チレボンの高速道路でハンドルに異常を感じて、止めて見おたら、釘のようなものが刺さっていて徐々に空気が抜けたらしい。

 その二回目の交換の時にギックリ腰になってしまった。次第にひどくなり、今朝は起きるのもつらかったが、出勤日なので出社し、抜け出して近くの病院へ行ってきた。日本なら、注射一本で二三時間すれば直ぐ治るが、こちらの其の病院では注射はしてなどの治療はせず。お痛み止めの薬を処方してくれただけである。それで、痛みが無くなればいいが、薬を飲んでも痛みは引かない。しばらく、こらえるしかないようだ。

 スイスの病院といい、こちらの病院といい。直すための処置はしないで、症状を散らす薬しかくれない。数値的に異常が無くて、ほっておけば自然に治るなら薬は使わないという主張らしい。

 

 写真アルバム(Photo Album)に追加しました。

 

http://otaindoesiaextrusion.web.fc2.com/newpage0014.html  Candi Pranbanan

http://otaindoesiaextrusion.web.fc2.com/newpage0013.html  Candi Sukuh

http://otaindoesiaextrusion.web.fc2.com/newpage0015.html  Borobudur

 

 それにしても、インドネシアの道事情は非常に悪い。舗装がいい加減なのです。雨期明けに何度も上塗り舗装をするのですが、次の雨季には必ず沢山のか所で舗装が禿げる、はげ始めればどんどん深くなる、以前の舗装も掘られる、その前も掘られる、地層ならぬ舗装層が見えるようになる。ドカンドカンと車が落ちる、バイクはこける、お陰で私も、それかどうかは分からないが二回もパンクをした。本当に、本当にインドネシアの道路はひどい状態である。無駄が多い。

 

夜のジャランマリオボロ ジョクジャカルタのメイン繁華街です。この通りの突き当たりの王様、スルタンの屋敷がある。

 

悪路  パンク  無茶

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(^_-)-☆ムラピの噴火後

2010-12-07 15:56:33 | 旅行

   無事に家へ戻ったが、疲労困憊、家に着くなり横になったら眠ってしまった。ボロブドゥールから07:30に出発して17:30に戻った。これがまた、10時間しかかからなかった、マリオボロからの時間を足すと、11時間30分くらい、南からの時間とほぼ、同じになった。というのは、チレボンのバイパス高速道路が20km以上延長されていたことと、インドラマユ辺りのバイパスも延長されていて街の中を通らなくなったことが大きい。

三日間で30時間以上運転していたが、知らなかった道は二日目のソロとスクー間だけだったので緊張して運転しているつもりは無かったが、やはり、疲れた超だった、帰りテガル、チレボン辺りは二時間ほど半分、眠りながら運転していたように思う。危ない、危ない。

サンライズとムラピ山を見ることが目的でした。ボロブドゥールへは何回目でしょうか、忘れた。今回は、ムラピの火山灰が降り注いだ結果、それを洗い落とす作業をしている関係で、寺院に登ることは禁止されていた。

目的達成は全くできなかった。ムラピ山は雲の中、三日間とも、雨模様でムラピ山の東、南、西を巡ってみたが、どちらからもムラピ山を見ることはできなかった。残念!!!

ボロブドゥールへ行く途中ムラピ山からの泥流の被災地を何箇所も通過、また、広い範囲でヤシの木の歯が下向きに垂れ下がった状態になっていた、降灰によって、傘が閉じてしまったようになっていた。ボロブイドゥール周辺のヤシの木の葉も同様でした。

チャンディ プランバナンへの降灰は無かったのに比べ、風向きにせいなのでしょう。ボロブドゥール方面(ムラピ山から西)の降灰はひどかったようです。ボロブドゥールがムラピ山からの降灰で埋もれてしまっていたという話、納得できます。

 

立ち入り禁止になっている登り口、ヤシの木に葉が傘が閉じたように垂れ下がっているし、葉の色が緑では無く灰色に変わってしまっている。川には灰の泥が堆積している。

活火山  ムラピ山  世界遺産

 

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(^_-)-☆旅の二日目

2010-12-06 06:17:24 | 日記

旅の二日目です。それでもゆっくり出発をした。7:30発で、北東に進み、ソロを目指した。目的地はソロから35Kmほどなお東にあるチャンディ スクーだった。かなり山の奥で、こんなところに石の芸術的なお寺があろうとは、昔の人はすごいと思う。彫刻が面白い。到着したのが11:00を回っていた。一番、厄介だったのはソロを通り抜けてどの道を行けば到着するか、だった。何度訪ねたたことでしょうか、皆さん、親切に教えてくれたが、遠い場所から聞き始めたので、知らない人も多く、知っていて丁寧に教えてくれた人も、最期までを私が記憶できず、せっかくの教えを無にするように分からなくなるたびに道端の人に聞いた。

生憎の小雨模様だったが、十分、建造物を堪能した。流れはチャンディプランバナンやラトゥボコなどと同じだと推測する。イスラムの仕業だと思うが顔が無い動物や人物像が多いのは残念、ボロブドゥールの仏像の顔が無いものが多いのと同じ理由だと思う。

 

帰りにチャンディ プランバナンにも寄った。2006年の地震でかなり崩壊したと聞いていたが、殆ど地震前に戻っているようだ。ただし、まだ、立体クルスワードパズルは続くでしょう。

プランバナンの雰囲気は好きだ。わびさびを知る日本人なら歴史の深さを感じるでしょう。

マリオボロ通りの歩道レストラン、私が始めて来たことがある十数年前には既にあった。よく公共が許すなと思う。清潔ではないし、邪魔だと思うが、開業の権利を黙認してるのでしょう。誰からも、クレームがつかないのでしょう。

 

疲れ  心地よい  遺跡群

 

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(^_-)-☆ジョクジャカルタから

2010-12-05 23:58:49 | 旅行

 昨日ペーテーパラマウントベッドの2011年のカレンダーを頂きに上がった。20部とTシャツを頂いた。言うまでも無く、このカレンダーの毎月の写真の内8カ月以上は私が提供した写真が使われている。来年のカレンダーにも数多く使われている。その中で私が一番気に入っているのは、ロンボクのヤシの木です。一人で運転しロンボクまで行きリンジャニ山へ登った後、帰路に就き途中、北の海岸へ山から下りてギリ三島を
右に眺めスンギギを通り過ぎたあたりのヤシの林でした。
http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/page0406.html
タイマーで自分を一緒に撮った写真もあります。何の変哲もないヤシの林ですが、私にとっては貴重な思い出の写真です。

一応、やっておかなければならないこと殆どが終わった。私が今直ぐやらなければならないことは無くなった。
そこで、三連休を利用し、旅先にいる。予ねて計画していたこと実行している。早朝04;00に出発した。去年のムディックに便乗してロンボクまで行った時以来、一年三カ月ぶりに、一路東に向かいバンドン、タシク、チアミス経由でジョクジャカルタ方面に入った。何度も通った、知っている道である。北回りでなく、南に下ってからジョクジャの西側から入った。いつもの逆回りをしてみた。こちらの方がはるかいに早く到着する。15:30にマリオボロのムティアラホテルへ着いてしまった。
 山の中の道が多いし、雨季の真っ最中で陥没したアスファルトも多く、何箇所かで地滑りの後、応急修復した場所もありの、結構、徐行運転を余儀なくさせられた場所もあったが、パンク修理15分、ガソリン給油やトイレ休憩30分を含めて、11時間30分でついた。北回りだと順調に来て13時間である。
 今いるホテルは、マリオボロの道に面した高級ホテルです。私のウェブサイトhttp://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
の表紙の右側に昔の写真を載せてあります。今も同じです。
 一人でブッ続けの運転で流石に疲れた。
 先ほど、ほかホカのマリオボロとジャカルタへ入る手前の道案内板、チラチャップやソロ、プロワカルト、バンジャルネガラなどの町の名前がある。
 慣れ, 運転, 旅

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(^_-)-☆決めた居場所

2010-12-04 23:01:37 | 行動

    来年、1月10日ごろから仕事をする場所が決まった。契約はまだだが、契約書の記入内容で合意したので、契約書を作るように依頼した。また、導入する装置についても合意した。3月には最初の製品を生み出す予定になっている。純粋にインドネシア人資本の会社の手伝いをやっとできるようになる。これが、本来、最終的に求めていたインドネシアへの手伝いになるでしょう。

インドネシア資本の押出工場で、エンプラの押出成形品の受注生産ができる唯一の会社になります。私の技術を使って受注生産をしている日系企業も安閑としていられなくなると思う。この部門でも、先日のプラスチック見本市のように日本の影が段々薄くなるでしょう。

 

私がインドネシアに留まる理由の最大のものは、純粋にインドネシア企業に私の技術を使って自立できる会社を育てたいことです。二番目は、私がインドネシアに居た方が今まで、私が製品を作って国内調達のお手伝いをした客先に対する責任があるからです。もし、私がいなくなった会社で私がいた当時の製品が出来なくなってしまった場合、困るのは、私に頼って仕事を出していただいたお客様です。その保険として、私が暫くは残らなければならないと思っています。事実、「何か問題があった時、太田さんが居なくなったら、どうなっちゃうの?」と心配する方もいます。インドネシアに居れば、コンサルタントとしてアドバイスできるし、場合によっては、新製品の現地調達の後押しも出来ます。

 

踏切の手前の様子、ベチャが左に写っている、その上の黄色い看板は、“踏切がある、注意”と書いてある。 踏切を渡りながら近くの駅を撮った。

 

話は飛ぶ、オジェック(バイクタクシー)の利用、私は知らない街のどこかを訪問する時、勿論、住所は確認して書いたものを持って行く。道の名前や街の名前を確認しながら近づくが、時として、迷ってしまって、あらぬ方向へ行ってしまうことがある。そういう場合、電話で場所を訪ねても、今どこにいるかが分からないので、聞きようが無い。そんな時、利用するのは、オジェックです。大体、至る所にオジェックの溜まり場があります。そこへ行って、場所を話し、オジェックに先導してもらいます。今まで、何回もそうしていますが、いずれも、しっかり後ろの私の車を確認しながら案内してくれた。これからも、機会があれば使うでしょう。分からなくなってしまっただけで、距離は殆ど二三キロ以内なので、料金は百円とか二百円です。

 

 居残り  目的  責任

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(^_-)-☆職探しは楽しい

2010-12-03 22:50:01 | 行動

    再び来年から仕事を手伝うであろう会社の見聞をしてきた。その会社が何を作って売りたいのか、そして、私自身が作りたい、売りたいと思っている製品などの話し合いが行われた。若いオーナーの意欲がよく感じられた。

 しかし、いずれの事も、投資が必要になる。その資金をどうするのか、最初は私にどの程度まかせることが出来るのか、彼の決断に依る。

 

 完全に全権を後継者に渡した。今月末、私はこの会社を離れる、何かと、口出しをしたり、客先との応対をしたりすると、本人が知らないことで何かが動きだしてしまっては困るので、100%何も知らないことにします。心配事は山ほどありますが、何があっても、私は、登場しません。

 

 ローカル相手も原料調達は大変難しい、原料切れで生産が出来ないなどということがあればメーカーの恥です。その恥が、結構あるのです。なれない日本人は、念には念を押す念の押し方の程度が自分が考えているより遥かに念を押さなければならないということに気が付くには相当時間がかかります。原料が入らない場合、それを、自分の念の押し方が間違っていたとは思いません。

 

 私は、必ず、予備の原料を準備します。通常使う原料が入らなくなってしまった場合、代替えの原料に切り替えます。客先の了解を取っておくことは当然です。通常の原料がどうも手に入りにくくなったという情報が入ったら、サンプルを直ぐに出せるように、試作を済ませてある。そして予備の原料を在庫します。私の部門で使っている原料は全てそうしてあります。ですから、原料が入手できないということは100%無いはずです。もし、原料が無くて生産できない事態になったなら、それは。手配する人のミスです。そしてそれはトップのミスです。

 エスチャンプル、掻き氷の一種です。

 原料  ミス  代替え

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(^_-)-☆様変わりだが

2010-12-02 22:59:19 | 状況

    最後に行ったのはいつごろでしょうか、もう、忘れました。それほど、興味が無かったインドネシアのプラスチック見本市へ行ってきた。目的はたったの一つ、その為に行ったのです。インドネシアで手に入るかどうか確認したかったのでした。行った甲斐あって、手に入れることが出来ることを確認した。

 それはさておき、久しぶりの見物で感じたことは、プラスチックの原料、製造装置、製品の全てで日本の姿は殆ど無く中国ばかりである。漢字の看板ばかりである。その中にシンガポールが若干混じっている。インドネシアもちょっと頑張っている。10年ほど前は、日系企業が出展しなければ、80%くらいは開いてしまうだろうと思われたが、今回は、日本企業は必要無いという感じだった。

 

 そして、なぜか、製造装置ではインフレーションがほとんどだった。それも、金型の直径が300mm程度の小型のものばかり、スーパーの買い物袋までの大きさしかできないものばかりでした。なぜでしょうか、インドネシア国内に袋作りの会社は嫌というくらい、至る所にある、一番、全国的に広がって分布していると言っていい産業です。その、買い換え、更新を狙っているのだろうとおもう。それほど、袋産業は成熟に達している。

 

 製品の展示を見ると、押出製品はシートやフィルムくらいのもので、相変わらず、PPやPEなどオレフィンにしても、ナイロン、ボリカーボネート、アクリルなどエンプラに属する樹脂のフロファイルを会社の展示は一社も無かった。金型も無かった。その技術を売る装置屋も無かった。要するに、私がやっているような仕事をやっていて、それを売りものにできるような会社が無いということです。

 

 少なくとも、インドネシアではまだまだ、私が指導する部分が大いに残っていることを確認した。現に、現在台湾やタイから輸入して販売している押出製品があるが、それらをインドネシアで作ることが出来るようにしてほしいと頼まれている物が二点ある。それで、インドネシアマーケットに割り込もうとしている若い実業家がいるのです。気持ちは十分理解できるので手伝うことになるし、インドネシアへの手伝いになれると思う。

 

見本市の看板、もう一枚は、危うい状況です。川の水面は横の道より1m以上は高い、それも、あと、10cm上昇すればあふれ出てしまいそう。しかし、そのあたりの人々はなにも心配していないようです。

 隙間  広い  勢い

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