暦の上では昨日になるが、デザイナー/イラストレーターのMitch Ikeuchi氏の作品展示会「showcase」を観に行った。
有難いことに、在廊予定でない当日わざわざオレに会うために来て戴いた。
前回に会ったのが去年の8月くらいだったので、期間としてはそこまで経ってないと個人的には感じるが、何分その間にお互い色々とあったんで、色々と話す事もあった。
一先ず現場を後にして、近くのカフェに入って談話。
Mitch氏はアート関係を生業としている傍ら、楽器演奏もする人で、元々はそこが縁で知り合う事になった。
専ら音楽の話ではあったが、そこから繋がった話は、表現者として何を伝えるかを、その当事者はある程度言葉に出来る必要がある、という話。
聴くにしても観るにしても、そこで提示したものに対しては第三者が何かしらの共感性を伴った問いを抱くワケで、ソレに対し提示者は言葉として伝える術を備えておく必要性がある。
実際、
こういった活動をしている人間の中には、そこを言葉として伝達しようとする術を備えていない者も少なくない。
飽くまでも自己の本能的表現であるので、そこを言葉で説明するという行為がオカシイという向きが居るのも理解できる。
観る者に考えさせる。自らの感受性を掘り下げる行為を促すのがそもそもの目的でもあるワケだから、そこに明確な題目を設けると、単に信仰と同じになってしまう。
そーいう事だ。
ただ、その表現したものに対して自分が何を思って描いたのか、という起点を伝言出来るかどうかが必要。
必ずしも右に倣えにする様な説明は必要ないが、少なくとも、その起点を共有してもらう事によって、観た者は更に自分の感受性を押し広げていける様になるのも事実。
ココに関しては実に難しいところである、というのを議論していた。
頭を捻るような小難しい事を話し合っていたワケでもない。
単に、表現をする者同士として、共通する考えを口にしていただけ。
絵画と音楽で、この話題が別問題とはならない。
精神的に共有/共感可能な議題である。
言葉を必要としないものであるが故に、尚の事言葉にして伝える事が出来るかが大きな問題になる。
言葉の持つ意味は大きい。
SNSというものが蔓延しているこの時代になると、一挙手一投足が不特定多数の人間の標的になっていると言えてしまう。
言葉選びが重要になってくるが、そこを突き詰めてしまうと、結果差し障りの無い、曖昧な物言いになってしまう。
でも、自分の持つ核は存在している。
ソレを言葉としてどう表現するのか?そして、その伝言が、実際に表現したものに対しての備えになっているか・・・・・・
実際、この話していて、スゲーもどかしい気分になった(笑)。
自分たちがやっている事に対して、理想と現実との距離が中々縮まらない。
それでも、着実に手繰り寄せてはいるのかもしれない。
そう信じて続けていくしかない、というのが、その日の話の着地点となった。
こーいうのを話し合える人物ってのも、オレの周りには事実あまり居ない。
やっている事に賭けている熱量が同じなのかもしれない。おこがましいが。
共有/共感できる伝言を出来る者同士は、何時の時代になっても居た方がいいに決まっている。
岡本太郎がそう綴っていたのを、ふと思い出した。
この人こそ、言葉の重みを理解している表現者だったよな。
有難いことに、在廊予定でない当日わざわざオレに会うために来て戴いた。
前回に会ったのが去年の8月くらいだったので、期間としてはそこまで経ってないと個人的には感じるが、何分その間にお互い色々とあったんで、色々と話す事もあった。
一先ず現場を後にして、近くのカフェに入って談話。
Mitch氏はアート関係を生業としている傍ら、楽器演奏もする人で、元々はそこが縁で知り合う事になった。
専ら音楽の話ではあったが、そこから繋がった話は、表現者として何を伝えるかを、その当事者はある程度言葉に出来る必要がある、という話。
聴くにしても観るにしても、そこで提示したものに対しては第三者が何かしらの共感性を伴った問いを抱くワケで、ソレに対し提示者は言葉として伝える術を備えておく必要性がある。
実際、
こういった活動をしている人間の中には、そこを言葉として伝達しようとする術を備えていない者も少なくない。
飽くまでも自己の本能的表現であるので、そこを言葉で説明するという行為がオカシイという向きが居るのも理解できる。
観る者に考えさせる。自らの感受性を掘り下げる行為を促すのがそもそもの目的でもあるワケだから、そこに明確な題目を設けると、単に信仰と同じになってしまう。
そーいう事だ。
ただ、その表現したものに対して自分が何を思って描いたのか、という起点を伝言出来るかどうかが必要。
必ずしも右に倣えにする様な説明は必要ないが、少なくとも、その起点を共有してもらう事によって、観た者は更に自分の感受性を押し広げていける様になるのも事実。
ココに関しては実に難しいところである、というのを議論していた。
頭を捻るような小難しい事を話し合っていたワケでもない。
単に、表現をする者同士として、共通する考えを口にしていただけ。
絵画と音楽で、この話題が別問題とはならない。
精神的に共有/共感可能な議題である。
言葉を必要としないものであるが故に、尚の事言葉にして伝える事が出来るかが大きな問題になる。
言葉の持つ意味は大きい。
SNSというものが蔓延しているこの時代になると、一挙手一投足が不特定多数の人間の標的になっていると言えてしまう。
言葉選びが重要になってくるが、そこを突き詰めてしまうと、結果差し障りの無い、曖昧な物言いになってしまう。
でも、自分の持つ核は存在している。
ソレを言葉としてどう表現するのか?そして、その伝言が、実際に表現したものに対しての備えになっているか・・・・・・
実際、この話していて、スゲーもどかしい気分になった(笑)。
自分たちがやっている事に対して、理想と現実との距離が中々縮まらない。
それでも、着実に手繰り寄せてはいるのかもしれない。
そう信じて続けていくしかない、というのが、その日の話の着地点となった。
こーいうのを話し合える人物ってのも、オレの周りには事実あまり居ない。
やっている事に賭けている熱量が同じなのかもしれない。おこがましいが。
共有/共感できる伝言を出来る者同士は、何時の時代になっても居た方がいいに決まっている。
岡本太郎がそう綴っていたのを、ふと思い出した。
この人こそ、言葉の重みを理解している表現者だったよな。