AKILA's えgo

気まぐれに、ドラムや音楽の気になった事上げとります。

やっぱりバンド

2018-03-29 00:55:00 | スタジオ
暦の上で昨日はE.O.D.で久々の練習。
4月20日にライヴがあるので、ボチボチ入らないといけないという事で一先ずリハビリがてら。

まァ、
元々演奏に関しては定評のある人間ばかりが集まってる上に、前回のライヴとさして変わりないセットリストなので、正直そんなオカシイと思える箇所は無かった。

とはいえ、演奏が円滑に行くようにもう少し馴らしは必要だとは感じたので、来月チョイ詰めでまた練習はするケドね。

しかし、
やはり思ったのは、バンドで練習すべきって事。

個人練習は自分に対して際限なく追い詰める事も可能なので、他に演奏する者が居る事を無視した内容にまで行ってしまう事もしばしば。
何より、楽しくなくなる時があるんだよ(苦笑)。独りでやってると。

やっぱり同じ空間を共有出来る仲間と演奏するのは、代え難い楽しさがある。

ココを味わえるから、より自分の演奏に対して真剣に向き合えるようにもなる。
オレは演奏するなら、バンドでやるのが良いね。


共有/共感の為の伝言

2018-03-24 01:00:00 | ノンジャンル
暦の上では昨日になるが、デザイナー/イラストレーターのMitch Ikeuchi氏の作品展示会「showcase」を観に行った。

有難いことに、在廊予定でない当日わざわざオレに会うために来て戴いた。
前回に会ったのが去年の8月くらいだったので、期間としてはそこまで経ってないと個人的には感じるが、何分その間にお互い色々とあったんで、色々と話す事もあった。

一先ず現場を後にして、近くのカフェに入って談話。
Mitch氏はアート関係を生業としている傍ら、楽器演奏もする人で、元々はそこが縁で知り合う事になった。

専ら音楽の話ではあったが、そこから繋がった話は、表現者として何を伝えるかを、その当事者はある程度言葉に出来る必要がある、という話。

聴くにしても観るにしても、そこで提示したものに対しては第三者が何かしらの共感性を伴った問いを抱くワケで、ソレに対し提示者は言葉として伝える術を備えておく必要性がある。

実際、
こういった活動をしている人間の中には、そこを言葉として伝達しようとする術を備えていない者も少なくない。
飽くまでも自己の本能的表現であるので、そこを言葉で説明するという行為がオカシイという向きが居るのも理解できる。

観る者に考えさせる。自らの感受性を掘り下げる行為を促すのがそもそもの目的でもあるワケだから、そこに明確な題目を設けると、単に信仰と同じになってしまう。
そーいう事だ。

ただ、その表現したものに対して自分が何を思って描いたのか、という起点を伝言出来るかどうかが必要。
必ずしも右に倣えにする様な説明は必要ないが、少なくとも、その起点を共有してもらう事によって、観た者は更に自分の感受性を押し広げていける様になるのも事実。

ココに関しては実に難しいところである、というのを議論していた。
頭を捻るような小難しい事を話し合っていたワケでもない。
単に、表現をする者同士として、共通する考えを口にしていただけ。

絵画と音楽で、この話題が別問題とはならない。
精神的に共有/共感可能な議題である。

言葉を必要としないものであるが故に、尚の事言葉にして伝える事が出来るかが大きな問題になる。

言葉の持つ意味は大きい。
SNSというものが蔓延しているこの時代になると、一挙手一投足が不特定多数の人間の標的になっていると言えてしまう。

言葉選びが重要になってくるが、そこを突き詰めてしまうと、結果差し障りの無い、曖昧な物言いになってしまう。

でも、自分の持つ核は存在している。
ソレを言葉としてどう表現するのか?そして、その伝言が、実際に表現したものに対しての備えになっているか・・・・・・

実際、この話していて、スゲーもどかしい気分になった(笑)。
自分たちがやっている事に対して、理想と現実との距離が中々縮まらない。

それでも、着実に手繰り寄せてはいるのかもしれない。
そう信じて続けていくしかない、というのが、その日の話の着地点となった。

こーいうのを話し合える人物ってのも、オレの周りには事実あまり居ない。
やっている事に賭けている熱量が同じなのかもしれない。おこがましいが。

共有/共感できる伝言を出来る者同士は、何時の時代になっても居た方がいいに決まっている。
岡本太郎がそう綴っていたのを、ふと思い出した。

この人こそ、言葉の重みを理解している表現者だったよな。


気を取り直し

2018-03-16 19:05:00 | ドラム
さて、
来月から早々にライヴが入ってきてる。

最初はDAMEDETHとして一本だったが、急遽E.O.D.でもやる事になったので、まァここまでの鬱憤を吐き出すには幸先良い形で活動再開といったところか。

昨日は知り合いのギタリストと会って色々と話していたんだが、問題になっているのが、やはり去年Heart Beatがなくなった事についての痛手。

オレの知り合ってきたミュージシャンはあの場所が多く、その人たちもHeart Beatを主に拠点としていた。
最良のライヴハウスがなくなったって意味でも相当な痛手を受けている上に次は何処を活動の拠点にするか、というのは、地元で活動しているバンドマンたちにとっては中々厄介な問題。

ま、
だからこそ、今一度自分たちが出している音というものが、実際第三者側の観点でどれだけ納得できるものになっているかを確認しておく必要があると思う。
裏を返せば、自分たちのバンドでの音に対して、より自信を以て演奏に臨めるようにする。自分達の造り上げたサウンドを信頼し、そのまま魅力として出せるようにしていく。

ライヴハウスは、その環境によってそこの都合の良いように音を作ってしまう傾向があり、ある意味音のまとめ方が上手くないバンドになるととんでもない聴こえ方になってしまう。
自分の音を造り上げており、尚且つバンドとしての音のバランスをしっかり考えているバンドだとその被害は少ない。

大音量系バンドだとその辺りをスポイルされる状態が出てしまうが、そこもどの部分を実際売りにして音を作り込んでいるかという、バンドにとっての武器を自覚してるかも問われるところだ。

去年の件があった故に、オレも今は知り合い連中に、自分たちが少しでもライヴ活動出来るように声をかける様にしている。
ココは他のメンバーにも協力してらいたいところだ。
勿論、ものを選ぶような事態は出てくるだろうが、そーいう話が来るようであればなるべく受けようというこれまでの姿勢は特に変えるつもりは無い。

寧ろ、WRECKONで動こうとするのであれば、そこは重要になってくる。
特定のジャンルのみで固まる様なライヴばかりでなく、方々から声かけてもらえる機会があった方が、より広い範囲でバンドを認知してもらえる。

根回しはある程度必要。
正直、オレは現状では未だ満足など出来ない。

4月以降は、また気を取り直してどう進めていくかを具体的に練っていくか・・・


その期を往く

2018-03-06 23:03:00 | ノンジャンル
結局この時期までかかってしまった。


タイトルは「凍み透り棲む」。

寒い時季にと思って描いていこうとしてたんだが、やはり寒きゃ寒いで動きが鈍るし、また仕事始めた事で余計に遅くなってしまう(苦笑)。

まァ、色の重ねと濃淡の付け方はまだまだ見直していくべきだが、この一年近くでボールペンでもそれなりに表現可能だというのが自分でも開けた。

今後やっていくとしたら、色鉛筆と併合してどんな感じで表現できるかやってみたいところ。


音に宿すもの

2018-03-02 02:08:00 | ノンジャンル
BURRN!JAPANを購入してしまった。
つってもそんな大袈裟なモンでもないが(笑)。

まァ、今回は気になる/知ってるバンドがインタビュー受けてたからしっかり読みたいと思ってたからな。

SURVIVEとIN FOR THE KILL。
この2バンドのインタビューが掲載されていたからだ。

しかし・・・SURVIVEのNEMOが去年の5月に死にかけるほど体調崩したとは知らなかった。
一昨年の暮に福岡に来てぶっ放していたのを見て、タフな演奏をするのは相変わらずと思いつつも改めてカッコイイやつらだなと思った。

オレは、音と共に演奏をする姿にある程度の屈強さを見せる事の出来るバンドに共感する。
大雑把に言うと、アメリカから出てきた90年代を代表するメタルバンド達は所謂タフ/ストロングスタイルとでも言える音像を造り上げていたバンド。
同時に、その時代はまだアナログとデジタルが音楽的/器楽的に鬩ぎあいの強かった時代でもあり、ある意味肉感的エクストリーミティが体感出来る時代でもあったように感じる。

SURVIVE、IN FOR THE KILLの連中は、その時代に多大なる影響を受けたバンドであり、その意味ではオレと世代的に大差はないかと思う。

まァ、IN FOR THE KILLのヴォーカルINAは元METAL SAFARIで、あのバンドにしたってPANTERAから影響を見せるバンドであり、今回INAのインタビューでもあの時代のバンドに影響を受けたと告白しているので、バンドの音と共に感じ取れる匂いに、同じものがあったのはオレの勘違いではなかった。

この二人のインタビューで出てきていたキーワードは、「暴力的」。
音に宿るその精神の吐露が、そう表現させる。
ここは、先にオレが述べた「タフさ」という言葉に相当する。

綴られているその発言の端々に共感できる点はあるが、ソレは個人的見解として置いておく。
述べたいのは、その音の雰囲気をそのまま存在感として自らを見せているのかどうか、という事。

単なる音像として作るのは、ハッキリ言って誰だって出来る。
今はお手本なんて言えるものがあらゆるところに転がっているから、その教科書に則ってやれば形としての暴力的な音は作れる。

が、
ソレは型であって、真の音像とは言えない。
人間的な、肉感が宿ってこそそのフレーズに魂が見えてくる。

オレが自分の音楽に欲しいのは、攻撃的である音の中に見える暴力性。
この辺りはハードコアと言っても差し支えないんだろうが、所謂あの辺りの危険と思わせる様な、強さの滲み出る響きが欲しい。

90年代に出てきた代表的メタルバンドは、こぞってハードコア的などとも称されてきた者達であり、それこそ当時流行したエクストリームという言葉を使われるバンド眷属に居た。

更に言えば、メロディらしいメロディが無い、バンドとしての骨格が剥き出しの正にストロングスタイル。
メロディ、或いはギターソロが有る事に対してオレは特に異存は無い。
ただ、そこを前提として作られるよりも、骨格に対しての彩りを見せられる点に力を注いだタフさの方に魅力を感じる。

要はバランスと言ってしまえるワケだが、オレとしてはメロディ、もっと言うと美旋律よりも厳つさを割合として強く持ちたいと考えている。
その精神が、音に宿るほどに曲へ入れ込んでいるか。

ココって、スゲー重要。
結局のところ、人が演奏して表現しているものだ、音楽って。
だから、問われるのは、その演奏にどんなものが渦巻いているのか。
突き詰めると、そこにあるのは人間の精神性という事になる。

最近、タフさ/暴力的な音像と共にその存在感を示せる様なステージングをやっているバンドは、特に若い世代に少なくなってきていると個人的にも感じている。
上述2バンドのフロントマンも、やはりそこは感じ取っているようで、悪い意味での馴れ合いが蔓延している。

何でその音を出しているのか?
そこを突き詰めて考えてみると、自分が出している音に対してより説得力を見出せると思う。
激しい音楽をやっている/いない関係なく。

憧れはあって良い。
問題は、その憧れという器にどうやって自分を入れ、盛り付けるのか。

そこを見せられないのでは、結局は模倣でしかないし、単なる空虚な音に過ぎない。

他の連中と同じ様な事をしたくない、という想いを持つのは当然だろう。
だからこそ、テメェの鳴らしている音に宿すものは何かと、考えるべき。

そーいうのを面倒くさいと考える様なやつは、オリジナルでやろうとするのは控えた方が良いだろうね。
オレは全く思わない。だから、やる。

まだ自分てやってきた事に対して手応えを掴んでない。
それまでは、少なくとも今はまだ死ねん。