昨夜、月例会があった。
そして、終戦後の食糧難の話題となった。
終戦時、我が家は父母・祖父母に私たち兄弟3人、7人家族であった。
お店の陳列台の下は、芋の”芋床”が設えてあった。
飢えずに済んだのは”サツマイモ”のお陰でしょうか?
主副食は、麦と混ぜて炊飯した”芋飯”であった。
芋は蒸かして”餡”にもし”スイーツ”にもなった。
煉った小麦粉を、四角に成形した芋餡に絡めて、土器製のフライパン?で焦げ目を着ける。
当時は極上のオヤツ(スイーツ)であった。
やがて、話題は「脱脂粉乳」になった。
私より5歳年上の先輩は、脱脂粉乳を知らないらしい。
今も、牛乳が飲めない人が居るが、原因は幼少期に飲んだ”脱脂粉乳”が原因の様である。
私の近隣にもいる。
脱脂粉乳と出会ったのはいつ頃だろう。
記憶が定かでない。
小学校での補助食であったことに間違いはないでしょう。
”進駐軍の厚意”と理解していたが、正確には、1946年から1952年の間、ララ物資(LARA:アジア救援公認団体が提供する支援物資)及び、1946年から1964年までユニセフからの食糧支援があった歴史を知った。
特徴ある匂いと味。
飲みたくない・飲めないと云う気持ちは理解できる。
他に、食べ物や飲み物があれば、飲みたくはなかった。
でも、私は、飲料に堪えることが出来たのである。
そして、現在があるのではないかと”良い方に”考えている。
それにしても、5歳違えば、食生活の環境も異なったことを知って、衝撃であった。
脱脂粉乳を知らない先輩と対し、栄養補給として、食した私は幸せだったのでしょう。
蛇足
脱脂粉乳は、段ボール製の”ドラム缶”に入っていた。
大きな鉄鍋で、脱脂粉乳の粉を、お湯に混ぜていた。
学校給食制度の奔りでは無かったかと思う。
そして、ブリキ製のバケツに入れて、当番が教室まで運ぶ。
アルマイト製の器で飲むのであるが”コツ”が必要であった。
持つ手も熱い。 唇がつく金属(アルマイト)は熱かった。
人差し指・薬指・中指の三点で支える、独特な持ち方に到達するのであった。
大人となって”矯正”が必要となったのではあるが・・・
そして、終戦後の食糧難の話題となった。
終戦時、我が家は父母・祖父母に私たち兄弟3人、7人家族であった。
お店の陳列台の下は、芋の”芋床”が設えてあった。
飢えずに済んだのは”サツマイモ”のお陰でしょうか?
主副食は、麦と混ぜて炊飯した”芋飯”であった。
芋は蒸かして”餡”にもし”スイーツ”にもなった。
煉った小麦粉を、四角に成形した芋餡に絡めて、土器製のフライパン?で焦げ目を着ける。
当時は極上のオヤツ(スイーツ)であった。
やがて、話題は「脱脂粉乳」になった。
私より5歳年上の先輩は、脱脂粉乳を知らないらしい。
今も、牛乳が飲めない人が居るが、原因は幼少期に飲んだ”脱脂粉乳”が原因の様である。
私の近隣にもいる。
脱脂粉乳と出会ったのはいつ頃だろう。
記憶が定かでない。
小学校での補助食であったことに間違いはないでしょう。
”進駐軍の厚意”と理解していたが、正確には、1946年から1952年の間、ララ物資(LARA:アジア救援公認団体が提供する支援物資)及び、1946年から1964年までユニセフからの食糧支援があった歴史を知った。
特徴ある匂いと味。
飲みたくない・飲めないと云う気持ちは理解できる。
他に、食べ物や飲み物があれば、飲みたくはなかった。
でも、私は、飲料に堪えることが出来たのである。
そして、現在があるのではないかと”良い方に”考えている。
それにしても、5歳違えば、食生活の環境も異なったことを知って、衝撃であった。
脱脂粉乳を知らない先輩と対し、栄養補給として、食した私は幸せだったのでしょう。
蛇足
脱脂粉乳は、段ボール製の”ドラム缶”に入っていた。
大きな鉄鍋で、脱脂粉乳の粉を、お湯に混ぜていた。
学校給食制度の奔りでは無かったかと思う。
そして、ブリキ製のバケツに入れて、当番が教室まで運ぶ。
アルマイト製の器で飲むのであるが”コツ”が必要であった。
持つ手も熱い。 唇がつく金属(アルマイト)は熱かった。
人差し指・薬指・中指の三点で支える、独特な持ち方に到達するのであった。
大人となって”矯正”が必要となったのではあるが・・・