ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

脱脂粉乳

2016年02月12日 | 日記
 昨夜、月例会があった。
 そして、終戦後の食糧難の話題となった。
 終戦時、我が家は父母・祖父母に私たち兄弟3人、7人家族であった。
 お店の陳列台の下は、芋の”芋床”が設えてあった。
 飢えずに済んだのは”サツマイモ”のお陰でしょうか?
 主副食は、麦と混ぜて炊飯した”芋飯”であった。
 芋は蒸かして”餡”にもし”スイーツ”にもなった。
 煉った小麦粉を、四角に成形した芋餡に絡めて、土器製のフライパン?で焦げ目を着ける。
 当時は極上のオヤツ(スイーツ)であった。
 やがて、話題は「脱脂粉乳」になった。
 私より5歳年上の先輩は、脱脂粉乳を知らないらしい。
 今も、牛乳が飲めない人が居るが、原因は幼少期に飲んだ”脱脂粉乳”が原因の様である。
 私の近隣にもいる。 
 脱脂粉乳と出会ったのはいつ頃だろう。
 記憶が定かでない。
 小学校での補助食であったことに間違いはないでしょう。
 ”進駐軍の厚意”と理解していたが、正確には、1946年から1952年の間、ララ物資(LARA:アジア救援公認団体が提供する支援物資)及び、1946年から1964年までユニセフからの食糧支援があった歴史を知った。
 特徴ある匂いと味。
 飲みたくない・飲めないと云う気持ちは理解できる。
 他に、食べ物や飲み物があれば、飲みたくはなかった。
 でも、私は、飲料に堪えることが出来たのである。
 そして、現在があるのではないかと”良い方に”考えている。
 それにしても、5歳違えば、食生活の環境も異なったことを知って、衝撃であった。
 脱脂粉乳を知らない先輩と対し、栄養補給として、食した私は幸せだったのでしょう。

 蛇足
  脱脂粉乳は、段ボール製の”ドラム缶”に入っていた。
  大きな鉄鍋で、脱脂粉乳の粉を、お湯に混ぜていた。
  学校給食制度の奔りでは無かったかと思う。
  そして、ブリキ製のバケツに入れて、当番が教室まで運ぶ。
  アルマイト製の器で飲むのであるが”コツ”が必要であった。
  持つ手も熱い。 唇がつく金属(アルマイト)は熱かった。
  人差し指・薬指・中指の三点で支える、独特な持ち方に到達するのであった。
  大人となって”矯正”が必要となったのではあるが・・・
  
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