寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

学生紛争の思い出(2)

2016年01月20日 22時17分12秒 | 寓居人の思い出話

 1955年、米軍立川基地の拡張計画が明らかになり

予定地域な愛の住民が反対同盟を結成した。この人

たちに労働組合員が支援した。そんなことが起きて

いることを全く知らなあい私は、1956年大学に入学

した。

 大学生も砂川支援に駆けつけようと学内で盛んに勉

強会を開いていました。授業開始時刻を少し遅らせて

もらってクラス討議をしている最中に、数人の自治会

役員と称する人たちが入ってきて話を始めました。

 クラス委員が今討論中だから出ていくように要求し

ましたが、彼らは話を中止しませんでいた。そこで全

員で取り囲んで教室から追い出し、討論を続けました。

結果は、全員で行くのは個人の考え方があるから止め

て任意で行くことになりました。クラスの半数近くの

学生が砂川へ行ったと思います。

 そして、1956年10月の闘争では千人を超す負傷者が

出たが、予定地の地権者23人が買収を拒否し続けたまし

た。私も1回だけ砂川へ行きました。何処からこんなに

たくさんの人が集まってきたのかと驚いたほどものすご

い数の人たちが集まってデモ行進をしていました。この

紛争は約10年ほど続きましたが、1968年に米軍が基地

拡張を中止し、さらに翌1969年日本政府も閣議で拡張計

画を中止を決めて拡張計画は終焉を迎えました。その後

立川基地は1977年に全面返還されました。

 これが私が初めて参加した学生運動でした。そして一

般市民が結集して行動し、政府の計画を阻止した歴史的

な事件になりました。

 

 


学生紛争の思い出(1)

2016年01月20日 15時07分36秒 | 寓居人の思い出話

 1960年代後半になると安保闘争の尾を引いた形で

学生運動盛んにが始まりましたね。この騒動では、初

期には今思うと目的がはっきりしないことやこんなこ

とを言うと叱られかもしれませんが思想闘争の様子は

見えませんでした。何か付和雷同といった形で学生た

ちが集まって騒ぎを始めた感じでした。もちろん騒動

の中心になった大学では何かの目的で教授会メンバー

と交渉していたようです。

 やがていろいろな団体同士の勢力争いの様相を呈し

てきました。そんなある日、校内のエレベーター前で

一人に学生を十数人で取り囲んでつるし上げていると

ころに出くわしました。暫時様子を見ていると取り囲

んでいた多数の学生が中の学生に対して足蹴にしたり

おかしなことに体のあちこちをつねったりしているの

に気が付きました。中の学生は悲鳴を上げ、壁を掻き

むしっていました。壁はその学生の血糊のついた爪痕

がたくさん付いていました。さすがにその光景を見逃

すことができず私は学生の間に割って入り中の学生を

救出しました。周りの学生がぶつぶつ言っていました

が、これ以上はやり過ぎだと言って説得しました。

 暴行を受けていた学生は後に全共闘系の団体に入っ

ていることがひょんなことからわかりました。

 そんなことがあって私は封鎖されていた校舎にとが

められずに出入りすることができました(苦笑)。

 研究室に入っても仕事をできるわけではなかったの

ですが、危険な薬品は見つからないように避難してあ

りましたが万が一持ち出されてないか心配もありまし

たので時々は研究室へ入りました。薬品は持ち出され

た様子がなかったのが幸いでした。