木曜でしたか、西宮や有馬に行ってた日、コメントボックスは、『じじ、ばば介護大変で、いろいろ問題ありますの』で、賑わっていましたよね。
楽母、少々複雑な思いで読んでました。というのも、知ってる人は知ってますが、私、親も兄弟も捨てましたからね。 父の死後、母をひとり離れたところにおいておくのは不安でした。で、すぐにでも近くに来る事を勧めましたが、母は想い出にしがみついて、近くに来る事を拒みました。 でも、まだその頃は良かったんです。頑固でしたけれどしっかりもしていましたし、別にボケの兆候もありませんでしたから。
ただ、おかしいな?と思いかけた頃にはすでに、かなり症状は進んでいたはずです。ところが、まあどこのおうちでも同じだな、と思ったんですが、自分の一番大切にしなきゃならない人(うちは兄ね)や、介護の審査に人がくると、物凄い頑張るわけです。兄は、見過ごしました。見過ごしたばかりでなく、母の状態を告げれば告げるほど不機嫌になって、「お前は根性が悪い、自分の母親を気○がい扱いする気か?」と。
結局、母のご近所周りから来るクレームや、民生委員さん、時には警察からの電話もあって、兄は漸く私の言葉を信じたのです。
その頃には、私の心も冷え切っておりました。母がまだらボケの状態の時に書いてよこした私への絶縁状も、兄の幾つかの言葉も、棘になって刺さりました。
どれほどぶつかりあったか知れません。赦すということが、本当は自分を救える唯一の手段と分かっていても、私はいまだに母も兄も、なにも知らないくせに「母親をお荷物扱いして捨てた娘」というレッテルを貼って私を見ている親戚筋をも赦せません。
無意味な事とは思ってますが、赦さない、その一念がどこかで私を支えているような気すらします。全ての財産相続放棄をしました。何も要らない、欲しくない。その代わり、いっさい何があっても、私に関わってくれるなと告げました。
年寄りに振り回されて、しんどい思いをしているのとてもよく分かります。私も同じ立場なら、愚痴愚痴します。 でも、ごめんなさい、介護や世話から解放されても、私の思いは、それなりにしんどい・・・です。大きな十字架背負ってます。
楽母、少々複雑な思いで読んでました。というのも、知ってる人は知ってますが、私、親も兄弟も捨てましたからね。 父の死後、母をひとり離れたところにおいておくのは不安でした。で、すぐにでも近くに来る事を勧めましたが、母は想い出にしがみついて、近くに来る事を拒みました。 でも、まだその頃は良かったんです。頑固でしたけれどしっかりもしていましたし、別にボケの兆候もありませんでしたから。
ただ、おかしいな?と思いかけた頃にはすでに、かなり症状は進んでいたはずです。ところが、まあどこのおうちでも同じだな、と思ったんですが、自分の一番大切にしなきゃならない人(うちは兄ね)や、介護の審査に人がくると、物凄い頑張るわけです。兄は、見過ごしました。見過ごしたばかりでなく、母の状態を告げれば告げるほど不機嫌になって、「お前は根性が悪い、自分の母親を気○がい扱いする気か?」と。
結局、母のご近所周りから来るクレームや、民生委員さん、時には警察からの電話もあって、兄は漸く私の言葉を信じたのです。
その頃には、私の心も冷え切っておりました。母がまだらボケの状態の時に書いてよこした私への絶縁状も、兄の幾つかの言葉も、棘になって刺さりました。
どれほどぶつかりあったか知れません。赦すということが、本当は自分を救える唯一の手段と分かっていても、私はいまだに母も兄も、なにも知らないくせに「母親をお荷物扱いして捨てた娘」というレッテルを貼って私を見ている親戚筋をも赦せません。
無意味な事とは思ってますが、赦さない、その一念がどこかで私を支えているような気すらします。全ての財産相続放棄をしました。何も要らない、欲しくない。その代わり、いっさい何があっても、私に関わってくれるなと告げました。
年寄りに振り回されて、しんどい思いをしているのとてもよく分かります。私も同じ立場なら、愚痴愚痴します。 でも、ごめんなさい、介護や世話から解放されても、私の思いは、それなりにしんどい・・・です。大きな十字架背負ってます。
互いの両親の世話をいつかはしなくてはいけません。
いまは元気ですが、この先どうなるか。
覚悟はしてるんですが、実際は、、たいへんなんだろうな。
ちょっと待て、知らない土地で介護の暮らしはしんどそう。こっちに引き取るわけにはいかないの?…とは言えなかった。
本当にそういう状況になった時、どう自分で行動するか、できるか全く予想がつきません。