がんぼのぶらり紀行

北海道オホーツク遠軽で、昭和時代のお茶の間みたいな食堂 やってる おばちゃんです。

夜パートを退職~4年10カ月の日々

2019年05月31日 08時06分34秒 | パートのおばちゃん

5月28日。これまでなら、水木曜日の休みに入る前日の火曜日。

遠軽でも超有名店の回るお寿司屋さんの夜パートの勤務最終日として終わらせていただいた。

入院中の母を訪ねる日々、息子が手伝ってくれるようになり再開した、今は、”自身の経営する食堂”、隔週の紋別往復とフリーペーパーの仕事と配達、同僚は向こうの世界へ逝ってしまったが、自営で続けて来たパソコン関連の継続してきた作業。

離婚して十六年。子どもら二人との生活を何とか支えようと、最終的には ”四つの草鞋” をこれまで続けてきたが、朝8時に出勤し、夜11時半に帰宅、午前2時に就寝という重労働に 疲れを感じ始めたのも事実。

手にできるお金は半減するが、子供たちも大人になったし、

仕事に対するプチストレスも、複数 重なると重いもの。

物理的な重労働~15㎏の油とか16㎏の寿司酢とか30㎏の米袋とか運搬ありww~と、精神的な重労働~直接ではないが、間接的巻き込まれ型人間関係~とかで いささか嫌気が生じて来たのも一因かな・・

60を前に、自分の負担を少し間引きしてもいいんじゃないかとこの四カ月 考えるようになっていた。

母のこれからの動向も不明で、説明もなく、不安を抱えたまま、いつ呼び出しがかかるか、仕事先を突然休まなければならないか より、いっそ決まりをつけてしまいたいという末の決断だった。

ほぼ洗い場だった前半二年と、シャリ場を担当させていただいた後半三年。

いつも手を抜くことなく妥協することなく、自分なりに満足・納得する仕事をさせていただいてきたつもり。

シャリ場として最終日。

ガス台天井の油滴も、壁の黄ばみ汚れも、ガス炊飯釜の焦げ付きも、フライヤーの底の油かす取りも、床の小さな米粒集めも、棚上の物入れの整理も食材容器の補充も、毎日洗濯するサラシ干しのシワ伸ばしも、最後の最後まで、きっちりと、きれいに仕上げて来た。

お決まりの終礼がかかり、本来であれば休みの社員さんまで出て来てくれ、けっこうな頭数が揃った中、

本日ラスト担当の副店長から「今日で辞められることになりました。一言を」と、遠慮したにも関わらず皆の前で引きずり出されたのだが、開口一番「四年と十ヶ月、働かせていただきました・・」の言葉のあとは、一気に感情が溢れだし涙涙で一言も喋ることができなかった。

同じ職場で働いてきた娘を手招きし、隠れるようにメソメソ泣きじゃくるばかり。

何度も挨拶を練習してきたのに情けない、ちゃんとしろよ! と思っても、声を出すことがとうとうできなかった。(;^ω^)

やっと「ごめんなさい・・」とだけ話し、列に戻ったが、皆「大丈夫。言いたいことは伝わる」と言ってくれた。

皆からの寄せ書きを頂き、プレゼントをふたつも頂き、集合写真まで撮って頂き、感無量。

仕事がまだ途中だったので、改めて皆に向け「ありがとうございました!」と礼を言い、シャリ場に戻ったが、それからも終礼には出席しなかったパートおばちゃんが次から次へと声をかけに来てくれた。

その都度、泣く泣く (;´∀`) ← 完全に涙腺破壊されたww

全てのシャリ場作業を完璧に終えたあと、普段なかなか出ていくことのなかった 客席・ホールを今一度、ゆっくりと歩き、いろいろな場所に目をとどめ、最後の時を過ごしてきた。

たくさんの想い出とたくさんのお給料を、ありがとうございました。

二日後、まるでパートを辞めるのを待っていたかのように、病院から ”転院が決まったので早めに面談に来るよう” 電話連絡があった。


【片づけ祭り】実家 物置

2019年05月12日 16時31分40秒 | 食堂のおばちゃん

さて。

入院中の母のことをあれこれ思い悩んでも仕方がない。

ここまで来たら、あとはなるようになれ。← 決して投げやりになっているわけではない。

自分の中でふっきったというか、歩き出さないとダメだろうという気持ち。

まず手始めに、手につかなかった片づけを片っ端から決まりをつけていこうと思う。

息子が体調不良で店を休みにせざるをえなかったので、ひとり自宅で悶々とするのももったいなく 思い切って店へ出て来た。

営業はできないが、片づけなら一人でもできる。

気持ちが変われば 運気も変わる。うん。きっとそう。

で。

再び 見てはいけない恥かしいものだらけの画像を貼っていく。← ここ笑うとこね。

このブログでは何度も書いているのだが、ヒトが長年 住まいしていくとモノは増えていく。

一人ひとりが好きなモノを購入していけば、2人寄れば2倍、3人寄れば3倍になっていく。

営業に使用するものも、業種は変わらずとも 営業内容が微妙に変化をしていけば、使用する道具も変容し、古いものは使わなくなっていく。

問題は、その「使わなくなった」モノを「またいつか使うかも」と いつまでもとっておくことだ。

「いつか」とは「いつ」なのだ。5年おいても、10年おいても、使わないものは使わない。

それどころか、経年劣化を起こし、数年後、いざ使おうとしても錆びたり剥がれたりで 使えない。

そこに気が付いたのだ。← 相当 遅いけどね。(;^ω^)

-----

そば打ち職人の父が逝去し、二年。 二度と使用することのないそば打ち部屋を改造(というと格好がいいが)し、食材庫にしつつ、そば茹で釜も撤去し作業台とした。

物置にはその際に出た端材や使用済みの道具類を、詰め込むだけ詰め込んできた。おなか一杯。

そろそろ物置を片づけなきゃ! と思っていたところへ母が倒れ、それどころではなくなって四カ月。

母のいない環境に、いやでも慣れていかなくてはならない。気持ちの切り替え時なのだ。

-----

着手前

四畳半ほどの奥行き長い物置には両壁にビッシリとモノを積み上げ、一貫性もなく足の踏み場もなく。

寒い日は 片づけに外に出ようとも思わんし。五月になったというのに気温の低い日が続いているのだ。

電動ドライバーと電動ソーとカッター、はさみ、テープ、ひもを身体にヨイショして作業開始。

まずは足場を作らんと。

ひゃあ・・・ 頭ぐらぐらするわww

何度も同じことを書いているが、50年の居住年数はモノのため込み年数でもある。

どれだけモノが溢れることになるか想像してみてほしい。

上の写真も、それでも3年ほど前に一気に手を入れ、相当モノを処分したのだ。まだまだ大漁(違う 大量)

今回の私の片づけ目標は、「3年使わなかったものは処分する」

奥にあるタンスふた竿。

十年前に、ある老夫婦から、「ホームへ入るからいらなくなった。やる」と頂いたもの。

その老夫婦とは結果、スッタモンダの大ごとに発展。面倒な思い出だ。

あの家は現在、ヒトの住んでいる気配がない。主はその後、どうしただろうか。

そのタンスだが、頂いたはいいが 結局 使わなかった。

両親に頼んで置かせてもらったが、それから十年。

場所を取るばかりなのでいらない。壊したい。運び出さないと壊せない。

一人でも結構 バカヂカラあるもんで 結局 運び出し 盛大に分解した。

あまり体力使うと、夜パートが控えてるんで(けっこう重労働)もたないんだけどねww

父が使っていた、園芸に使う竿が50本以上あったり、母が日曜大工に使用する重い板が何十枚もあったり

捨てるにも燃える燃えないの分別や、燃える板に燃えない金具やねじ釘がたくさんついているのではずしたりと、なかなか処理も大変。

竿はひもで縛り、板も使えるものは分けて使えないものをまとめたり、引き出し内に入っていた畑の薬剤やら害虫駆除の薬やら。

日曜日なのでゴミ収集施設も休みだし、今日は時間がない。

次の休みにまとめて運べるようにして、今日の作業は終了。

所用時間 40分

着手前とあんまり変わらんな(;^ω^)

-----

次回の片づけは、

1.燃える・燃えない大型ごみを 各収集施設へ運ぶ

2.食器を使用する頻度の高いものから並べ替える

3.冷凍庫を設置する場所を整地する

4.入口ドアを修繕する


恩師の逝去を知る

2019年05月08日 22時38分12秒 | 徒然

「今日、どうしてもお訪ねしなくては」

二週に一度の紋別行き。しかし 15時過ぎまで食堂業務。後片付けをしてから紋別へ向かい、17時半までには遠軽へ戻り、ある場所へ時間通りにお届け物をしなくてはならず、紋別市内では一切 寄り道できないスケジュール。

いつも 市内での滞在時間は一か所への訪問、わずか5分で遠軽へとんぼ返り。

だが、この数カ月、ずっと 姪御さんから長期にわたりお借りしていた大切なものを、早くお返しにあがらなくては と頭から離れなかった。

その気持ちは、年が明けてから、”早いうちに” という 妙な使命感さえ覚えていた。

そんなおり、母が倒れてしまい、時間の自由がまったくきかなくなって 4カ月。

---------

今朝から、”何があっても、どうしても、今日、訪ねなくては!”という 妙な切迫感さえ感じ、

他の用事を全て繰り下げ、最優先で 借りものをお返しにあがった先で、恩師の逝去を知る。

恩師の旅立ちには、”静かに 家族葬で終わらせました” と奥様。

恩師が、「会いに来て」と、声をかけてくれていたのかもしれません。

あらためて、長年 恩師にお世話になったこと、奥様と話ができたこと、姪御さんから安堵の心を頂けたことを 心から幸せに思います。

ありがとうございました。m(_ _)m


想いを変える

2019年05月05日 23時54分35秒 | 徒然

一人っ子で育った私。

子どもの頃も、学生時代も、結婚してからも、両親の経営する食堂を手伝うという名目で、

人生の半分以上を、母と仕事をし、友達のように暮らしてきた。

どんなことでも口に出して相談し、笑い合い、時には一緒に憤慨したり。

自分にとって、母のいない生活など想像もできなかった。

それが突然、目の前から 「いつもの母」 が消えてしまった。

目に映るのは、ベッドに寝たきりで 自分の意思疎通も叶わぬ 人形のような女性。

左目は動くが、以前のように、問いかけには応えてくれない。

自分の半分が死んでしまった感覚。まさにそれ。

1月中旬に倒れて北見市の病院に運ばれ、今日までずっと私の気持ちはひたすら右下がり。

先週は、娘の私を「わからない」(言葉は出せない。「私、〇〇だよ、わかるかい?」の問いに小さく首を横に振られた)とされ、少なからずショックを受けた。

二度と、母の元の姿には戻れない悲しさと、15年前に離婚し、二人の子供たちを育てながら、自身を養うしかなかった。

両親とて裕福ではなく、転がり込むこともできず。

父をなくし、母が大病を患い、

これからの生活さえ どうなるかわからない不安が入り交じり、

暗い毎日を過ごしてきた。

-----

今日。突然。何かがふっ切れた。

「この道が戻れないなら、別の道を歩けばいいじゃないか。

母が元の姿に戻れないのはもう仕方がない。でも、まだ生きてる。生きてくれている。

-----

母とは元気な時に何度も話し合った。

何かあったら(今回のように突然倒れたりしたら)施設でお世話になってもらうよ。母も「それでいいよ。子供らの生活を脅かしてまで生きていなくてもいい」

そんな会話を、数日に一度は冗談交じりに話していた。

悲しいかな、現実になってしまった今

一人娘の私は、相談する相手もなく 八方塞がりで泣きながらこの数カ月を突っ走ってきた。

これからも、どうしていいのかわからず 立ち止まり 心は泣きじゃくっていた。

-----

息子が一緒に、両親の作り上げて来た食堂を立て直すため、尽力してくれるようになった。

不安を抱えながらも、地道に一歩ずつ、間違いなく、売り上げを伸ばしているじゃないか。

母のことはこれからも気になり続けるが、命の不安はなくなったのだ。

生きてくれているだけでもうれしい。

母だって、娘がいつまでもメソメソしている姿はみたくないはずだ。

母の想いをポケットに大切にしまって、助けてくれる息子と歩き出そうと思う。

母さん。会いに行く回数は減るけど、決して忘れているわけじゃない。働いてお金を作って、母さんの暮らしを少しでも助けたい。

リハビリ主体の病院へ転院したら、また新たな道筋が見えてくるかもしれない。

忘れちゃってる娘の顔も、思い出してくれるかもしれない。

小さな期待を持って、明日も一日 笑顔で働くよ。うん。*\(^o^)/*


母の事 100日目

2019年05月01日 18時07分00秒 | 徒然

4月17日。

見舞いに行った私たちのところに担当看護師が来て医師から近く説明があると言われた。

二日後、病院から電話あり、話があるので午後または明日朝来れないかと。

明日朝となると往復時間を考えると、店を休まざるを得なくなる。売上が少ない今、また店を休むのは正直なところ非常に厳しかった。

母の身体の事なので 当然心配だし 病院側からの話は大切なことは解ってはいるのだが。

だが、食堂の一日の売上を 店を休むことにより潰し、更に夕方からの夜パートに間に合うよう帰宅し、午後11時まで重労働するには自分の身体にとっても良しとしない判断。

母には申し訳ないが、店の売上と自分の身体を優先し、今日これから(午後3時発)北見へ向かい、午後6時までに遠軽へ戻り 夜パートへ出るつもりで動き出す。

午後4時には病院へ到着、医師を待つ身となったが、医師は外来診療が終わらず、結局 午後5時半近くまで待たされた。看護師に連れられ外来科へ行き、医師から説明を受ける。

「かさぶたが剥がれてみたら、問題が」

詳細は割愛するが、最初の手術で 壊死した右脳の腫れを外部へ逃がすため取り外した骨片を、脳の腫れが収まった時点で二度目の手術にて自身の骨片を戻したのだが、その後の回復期を過ぎても、傷口が接着できなかった箇所がある、接着式軟膏にするか再手術縫合にするか迷っている とのことだった。

急だが、週明けの23日に三度目の手術をするので同意書にサインをしてほしい との話だった。

もう今の時点で、イヤダのナンダの 選択肢はないのだ。

相変わらずの左半身麻痺、右目は開かず、首も動かせず寝返りもできない、声も出ず話もできず字も書けない、経鼻経管栄養の寝たきり。

高齢の母が、三度目の手術に耐えられるのか。

4月23日。

前日の電話連絡で、麻酔科担当医の説明があるから午前9時までに病院へ来るよう言われたので、7時半に遠軽を出て8時半までには病室に着いた。

ところが待てど暮らせど。3時間待っても連絡なし。ひたすら待つ。

ようやく説明で呼ばれたのは 間もなく手術が始まるという午後0時30分。こんなことなら11時までに来ても良かったのでは。

すぐに病室へ戻ったが、母はすぐに手術室へ移動することになり、一緒に向かう。

手術室入口で患者氏名の確認を行うと、そこからまた3~4時間待つことになる。

いつ呼ぶことになるかわからないので病院敷地内にいるように言われたが、休憩室を与えられるでもなく、病室にいられるわけでもなく(椅子がない)、患者さんが食事をとるデイルームの片隅で所在なく待ち続けるしかなかった。

午後3時。待ち疲れ、一緒にいてくれた息子と病院内テイクカフェを買い、駐車場の自分のクルマに移動。わずかだが眠った。

午後4時。連絡してあった私の携帯に「手術が終わったので手術室へ」との電話があり、向かう。

母は頭部を大判のテープでぐるぐる巻きにされていた。

最近は包帯の出番は少なくなったんだな。

担当医から術式が無事に終了したこと、問題はない。このあと三週間はまだこの病院でちゃんと責任を持って預かると話をされ、大きな声で名前を呼ばれた母は、わずかだが 開く方の左目を開け、意識があることを見せてくれた。

一緒に病室へ戻ったが、「点滴や注射などお世話があるので外でお待ちください」と、ここでもまた30分近く廊下で待たされ。

ようやく対面できたが 母は術後の疲れもあってか 声かけをしてもほとんど反応を示さず眠ったようだった。

このままいても面会時間の終了時間が近くなり、何より息子も私も疲れ果ててしまって言葉少なになってしまっていた。

母の寝顔を確認し、四人部屋なので、小さな声で「母さん、三度目の手術 頑張ってくれたね。ありがとう。疲れているだろうから今日はこれで帰るよ。少し眠って」と耳元で囁いて、息子に目配せをして病室を出た。

一時間かけ、遠軽へ。

くたくた。

で、手術の日は早朝から夜まで北見だったので食堂を休まざるをえず、翌日は息子も私も前日の待ち疲れ過ぎて仕事にならず 食堂を休むという。

店、潰れる。悲


内容掲示

内容掲示