1月半ばに倒れてから 早 半年を迎えようとしている。
母は変わらず 左半身麻痺、声も出ず 右目も開かず 自力では首を回すこともできない寝たきり。
5月30日に日赤から「頭の傷はほぼ治り(縫合不足で皮膚がつり4月末に再手術を受けた)落ち着いたので、次の病院へ転院する手続きを」と連絡があり、6月3日には同じ北見市のオホーツク海病院へ転院となった。
バタバタとあわただしい引っ越しに母が一番驚いているのではなかろうか。
転院先は、リハビリ専門で有名な病院だが 最初の打ち合わせで「この病院でリハビリを受けられる期間は発症から6カ月と定められており」 つまり母の場合、日赤で3カ月→3度目の手術により更に1か月滞在したことにより、リハビリはたった2ヵ月しか受けられないと言われた。
引き留められた3度目の手術は病院側の責任になるのでは? それにより治癒までかかった1か月は 猶予は受けられないのか?
疑問が生まれた。
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転院初日、医療相談室で説明を受けたが、
経鼻経管+ミトン使用は、病院も、施設も、オホーツク管内ではもうどこも受け入れてくれるところはないそうだ。
北見市で1か所だけ存在したが、既に十数人の待ち人がいるという。
入院している2カ月の間に、モノを口から食べ飲み込むことができるまで回復すればいいのだが、と言われたが、可能性はゼロだ。
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自分なりに苦しい判断を迫られていた。
母のことを思えば思うほど、そうすることが一番幸せなはず と結論づけてしまう自分がいる。
胃瘻の処置を施し、現状の母 (水分も液状食も飲み込むこともできぬため~管を入れているために飲み込めないのでは?声も出るのに発声ができないのでは?という疑問も~)は、食事をとるために経鼻経管を行っている。
右手がある程度 自意識で動かせるため、自分で抜いてしまう危険性が非常に大きく、唯一 自力で動かせる右手に24時間ミトンをされている 負担を少しでも軽くしてやりたいと思っている。
冷たい書き方になってしまうが、85歳を迎える母が、これから何年生きられるかわからない。
だからなおのこと、今以上 つらい思いをさせたくないのだ。
ならば、胃瘻を受け、これまで半年間 鼻に繋がれたままの管を取り除いてやり、”抜く危険があるから”と24時間ミトンを履かされベッドに括りつけたままの右手を開放してやりたいのだ。
頭が痒かったら、自分で掻けるようにしてやりたいのだ。
書こうとしている 文字を書かせてやりたいのだ。
見舞いに行っている短時間だが、ミトンをはずしペンを持たせると 書こうとする意志が見て取れる。スケッチブックを、書こうとするペン先へあててみるのだが、寝たままなので肘が安定せず読める文字にはならない。悔しい。
書こうとする、書きたい(字を書きたいよね、と話しかけると うん と頷く。こちらの言うことは解っているのだ)意志があるのに、チャンスを殺してしまっている。
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胃瘻は、私にとってとても身近な存在のある人に、「人としての尊厳をかき消す行為。ゼッタイにするべきではない」と言われてしまった。母がまだ倒れる前のことだ。
だが、こうなってしまった今、私の考えは、
胃瘻を避け、経鼻経管をこれからも続け、唯一、動く右手をこれからも生きている間 24時間365日 ずっと ベッドに拘束していることが ”人としての尊厳を守る行為” とは思わない。
まもなく転院して初の、担当医からの現状報告とこれからの方向性の相談の日がくる。
母に、胃瘻を受けさせたいという私の意志を、はっきりと担当医に伝える。
娘や息子にも その意志は伝え、賛同してもらった。手術費や入院費は頑張って働いて何とかする。
1日でも長く、母に生きていてもらいたい。その母に、”できることがあるなら、自力でさせてあげたい”
手先の器用だった母が、いくら”生きるため”と言われても、その手段を 自由を完全に奪われた寝たきりの人形ではいたくないはずだ。
胃瘻を受け、右手の自由を取り戻し、そのうえで、母が何らかの異常で旅立ってしまうのだったら、その時は寿命を迎えたものと思いたい。
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ブログに書き綴るには あまりにも重い。
涙で画面がぼやけながらキーボードを打つ。
ここで判断を下さなければ、母の行先はない。
鼻の管と、拘束ミトンがなければ、遠軽にも受け入れてくれるところがひとつだけあるそうだ。
その可能性と、母の文字を 今は夢見ている。