富田元治のブログ

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益城町・義援金独自配分

2016年12月02日 | 熊本大地震

12月2日の熊日新聞から。

益城町・義援金を独自配分。

益城町は1日、町に寄せられた熊本地震の義援金約9億3000万円

(11月28日現在)の配分先として、自宅を一部損壊と判定された世帯に

一律5万円を支給すると明らかにした。

 

できるんですね!

法律が無視する一部損壊被害者を支援することが。

一部損壊被災者も同じ被災者です。しかも、義援金の配分です。

寄付された人も一部損壊被災者に義援金が届かないとは思ってもおられません。

配分委員会の人間としてのモラルの問題ですよ。

 

町によると、住宅被害世帯への配分額は

全壊が10万円、半壊(大規模半壊含む)は一部損壊と同じ5万円とする。

人的被害は死亡者の遺族に10万円、重症者に5万円。

以下、熊日新聞をスキャン。

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、熊日新聞をスキャンしました。

 

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人生

2016年12月02日 | #あ~人生

福寿草・雪の中から顔を出します。

一度、現地で見てごらん。感動しますよ~!!

福寿草・gangeeのホームページから転載。

 

 

ちょっと長いけど読んでごらん。

人生の【おわり】が見えてくる年代の人は、胸にジーンとくるかも~?

老い先短い私は、ドーンときました。

 

増田俊也の「肉体の鎮魂歌」の【おわり】に書いてあります。

 

掲載作品には、それぞれ独自の空気と世界観があるが、

こうして並べてみると、通底しているトーンがある。

それは長い人生において、せいぜい10年程度しか頂上として通用しない

”肉体”というはかない道具を使って自己実現を試みる、スポーツという

ジャンルの特異性からくるものだ。

 

沢木耕太郎さんの「三人の三塁手」のなかに、野球界を去って人知れず

居酒屋チェーンで店長をしている土屋正孝が、

「儲かって困るほど儲かる。でもさカッコ悪くてさ」

と言って、友人から

「商売人で一番カッコいいのは儲けることだ。それ以外にない」

と厳しく叱られるシーンがある。

 

私が初めてこの「三人の三塁手」を読んだのは大学時代だった。

そのとき、私はこのシーンの意味を理解できなかった。

土屋の側に立って、ものを見ていたからである。

土屋が言っていることが正しいと思った。

なぜ、土屋が叱られるのか理解できなかった。

 

ようやく意味がわかったのは、30代も半ばを過ぎてからだった。

「スポーツは人生の縮図である」

こんなステレオタイプの言葉がよく語られる。

 

だが、実際のところ、この作品に出てくるようなスーパートップ競技者たちは、

引退後、いつ終わるとも知れぬ残りの退屈な人生に気が狂いそうな日々を過ごし、

逆のことを思っているのではないか。

「人生はスポーツの縮図です」と。

 

スポーツ界の底辺である地方国立大の柔道部員でしかなかった私でさえ、

先の言葉、「商売人で一番カッコいいのは儲けることだ。

カッコ悪いのは損することだ。それ以外にない」

を理解するのに引退してから何年も何年もかかった。

 

ジャイアンツの二塁手だった土屋正孝がそれを理解するのに

いかほどの時間が必要なのか考えるまでもない。

おそらく今際(いまわ)の際(きわ)になっても理解できないであろう。

 

彼らにとって、その後の経済的成功も社会的名声も会社での出世も、

すべて現役時代の喉(のど)がひりつくような熱い日々に比べたら、

練習前のキャッチボール程度の軽さしかないのだ。

 

野球だけが人生じゃないんだよ。

スポーツだけが人生じゃないんだよ。

いくら言っても彼らの耳は過去のグラウンドの球音を追い続ける。

 

しかし、”その後”の人生に、苦しみ、血を流し、のたうちまわっている

スポーツノンフィクションの登場人物たちの生き様は、

本人たちにとっては塗炭の苦しみの後半生ではあっても、

読者にとってはその苦しみでさえある種の羨望である。

 

たとえ成功をつかむことができなくても、ほんの数年間であっても、

鮮明な目的を持って生きた者たちにたとえようもなく惹(ひ)きつけられる。

そしてその後の苦しみにさえ惹(ひ)きつけられる。

 

この世に生を受けた私たちは、時間が間延びしているように感じようが

退屈だろうが、目的も見つけられない人生にときに叫びだしたくなりながら、

それでも日々を生き続けなければならない。

 

答えは見つからない。

見つかるわけがないではないか。

あらゆる先人たちが過去2000年もの間さまざまな学問から

アプローチし、また思索からのアプローチで人生に意味づけを

しようとしたが、誰もそれを成し遂げていないのだ。

 

だから、この本を読んで答えを見つけようなどと努(ゆめ)思ってはならない。

感じるしかないのだ。

登場人物ひとりひとりの歓(よろこ)びや苦悩を我がこととして抱きとめ、

ただ感じるしかない。 (増田俊也)

 

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