写真は真実を写していない、かもしれない(その二)

 昨日、「写真は実をしていない、かもしれない」と書いた。長年ノートリミングだと思っていた写真が実はトリミングされていたとか、まさに「決定的瞬間」を捉えた写真だと思っていたものが、実は「やらせ」だったかも知れないと云うのはまさに氷山の一角であり、むしろ真実を写していない写真の方が多いと云っても良いほどである。

 稚拙な例で恐縮だが、たとえばこの写真。


 これは2004年12月11日になるせの森の尾根筋で、まだ色づいていた楓を300mmの望遠ズームレンズ(35mm換算)で撮影したものである。バックには遠くあかねの森の南端の紅葉・黄葉がぼんやりと見える。穏やかな初冬の森の雰囲気を伝えることが出来ているだろうか。

 そしてもう一枚。


 まったく同じ時に、同じ300mmのレンズで同じ方向を撮った写真である。違いはと言えば、ピントを楓の葉ではなく、そのずっと向こう、あかねの森の南側に開発された住宅地に合わせたのかということだけである。

 この2枚の写真について云えば、2枚目の方が客観的な現実(事実あるいは真実と言い換えても良い)をより正確に表現していると云えよう。しかし1枚目の写真が現実を捩じ曲げているかと云えば、決してそうとは云えない。ある物をなかったことにすることと、ある物を余り見せないようにするのとは違うと、郷秋<Gauche>は思うのである。

 1枚目は都会に残る里山の美しさを強調し、2枚目はその里山にも開発の手が伸びていることを強調した、それだけの違いなのである。そしてその違いは、撮影者の視点、云い換えれば考え方の違いによるものなのである。1枚目は美しい自然を愛でる視線であり、2枚目は美しい自然を破壊する開発行為を糾弾する視線と云うことも出来よう。

 考えてもみれば、写真、つまり英語のPhotographはphoto「光」(で)graph「描かれたもの」だから、直訳すれば「光画」程の意味。その仕組みを有体に表現したはずのPhotographであったはずなのに、これに「真実を写す」と解釈することの出来る「写真」という訳語を付けてしまったことが間違いの始まり、「写真には真実が写っている」という思い込みを醸成してしまった原因なんだろうな。
コメント ( 2 ) | Trackback (  )