「歴史のダイヤグラム -鉄道にみる日本近代史-」(原 武史著 朝日新書 2021年9月30日第一刷発行)を読んだ流れで、20年近く前に読んだ同氏の「鉄道ひとつばなし」(講談社現代新書 2003年9月20日第一刷発行)を読み返している。一度読んだはずなのだが、その内容はすっかり忘れており、新鮮だ。どちらも新聞あるいは定期刊行物に連載されたものがベースなので一話は短く、飲みながらあるいは寝る前にちょいと読むのに最適である。その「鉄道ひとつばなし」の一項、「成城学園から小田急に乗って –平塚らいてうと柳田國男」(70頁)にこんな記述があった。
(子を成城学園に通わせ、1927年に成城に移り住んだ)柳田は1943-44年にかけて毎週水曜日を散歩の日と定め、小田急の下り電車に乗って多摩川を越え、郊外に出かけることが多くなる。
稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)、東生田(現・生田)(郷秋<Gauche>注)、柿生、新原町田(現・町田)・・・・・・らいてうには馴染みがなかったこれらの駅に、柳田はしばしば下車した。(72頁)
郷秋<Gauche>注:原は西生田駅を現「生田駅」としているが、これは錯誤で現「よみうりランド前」ではないかと思われる。
時は1943-44(昭和18-19)年のことであるがこの時、柳田は柿生と新原町との間にあった、鶴川駅と玉川学園前に降り立ったことはなかったのだろうか。
なぜ、私がわざわざ鶴川と玉川学園前と書いたかと云えば、鶴川には白洲次郎(1940年から在住)が、玉川学園前には柳田が成城に転居した当時、成城高等学校校長であった小原國芳が、1929年に新たな教育の夢を実現せんと成城を辞し玉川学園を創立し、その地に住んでいたからなのです。
果たして日本民俗学の開拓者である柳田國男と、最後の私塾創立者・新教育の開拓者である小原國芳、戦後は吉田茂の懐刀として、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎との間に、同じ小田急沿線居住者として交流はなかったのか、大いに気になる郷秋<Gauche>である。
例によって記事本文とは何の関係もない今日の一枚は、森の中で開花の時を待つ鶯神楽(うぐいすかぐら)。
横浜の住宅地の中に残された小さな里山の四季の移ろいを毎週撮影しているblog「恩田の森Now」に、ただいまは2月19日に撮影した写真を5点掲載しております。立春過ぎとは云え、寒い一日となった森の様子をご覧いただけたら嬉しいです。
https://blog.goo.ne.jp/ondanomori/e/d06350161b010e1fb95172503c886e6a
To the author of this page: gaucheadgc(at sign)gmail(dot)com
Type "ijnuG ihsoyiK" adversely, and find me on Facebook.
#原武 #柳田國男 #小原國芳 #玉川学園 #鉄道を通して見る世相 #鉄道の文化的側面 #ウグイスカグラ #スイカズラ科スイカズラ属