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塀越しに桜を見ながら、弘道館の敷地内に進みました。2011年3月11日の東日本大震災にて甚大な被害を受けて閉鎖され、2014年から二年余りをかけて復旧工事が進められ、今年2014年の3月27日、ほぼ三年ぶりに一般公開が再開されました。
江戸期の藩校の建築遺構は、全国各地に幾多の例が知られ、多くの遺構を残す所だけでも六ヶ所が挙げられます。その六ヶ所のうちで唯一、私がこれまで行っていなかったのが水戸の弘道館だったので、その見学は残された課題のようなものでした。U氏はそのことを知っていてくれたから、その公開再開の情報を一番に知らせてくれたのでした。
京都造形芸術大学の受講期間に共に席につき、同じ単位コースを選択して京都、奈良、滋賀などの文化財を一緒に見学していたころ、日本建築史のレポートを共に提出したことがありました。U氏は古社寺建築のうちの天平期遺構を、私は城郭や陣屋の御殿建築を、それぞれテーマに選んだのですが、その折にU氏が言いました。
「俺の地元の水戸にも弘道館という立派な藩校の建物が残っている。機会があったら見るといい」
それは是非見なければ、と応じてから、早くも十数年が過ぎてしまいました。ようやくここに来たか、という思いでした。
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弘道館の玄関の両側には、有職故実に倣って左近の桜、右近の橘が植えられています。上画像は左近の桜で、本来は平安宮内裏の紫宸殿前庭に陣を植えられている桜と橘のうちの前者を模しています。さかのぼって平城京の頃には左近の梅でしたが、藤原期に桜に替えています。
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こちらは右近の橘です。左近、右近とは本来は左近衛府、右近衛府の略称で、天皇のおわす紫宸殿の東西に陣して侍る両衛府長官の陣頭に花を挿した故実が知られます。いずれも朝廷の軍隊ですが、格は左近衛府の方が上であったといいます。
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玄関の式台を見ました。本来はここから入るのですが、文化財指定を受けているので観覧者出入口が別に設けられてあります。近年に復元された「国老詰所」が資料展示室となっていて、玄関からそこへ繋がる廊下に出入口がつけられています。
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玄関の奥の「諸役会所」の床の間には「尊攘」の額が掛けられます。「尊皇攘夷」の略語で、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想です。江戸末期に朝廷から一般民衆まで広く論じられ、討幕運動の基本思想となりました。
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玄関より廊下を左に進んで「入側」に進むと右手には「三の間」、「二の間」と控室が続きます。藩校であるというものの、御殿建築に準じた部屋割りが採用されていることが分かります。
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「正席」と呼ばれる表向部分の正庁の主室です。ここで藩主臨席のもとでの試験や諸儀式が行われました。この部屋から外には「対試場」が設けられ、武術試験の観覧も行なわれました。
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表向部分の西側にある「湯殿」です。この部分は近年に復元されていますが、江戸期の浴室の構造を知る事が出来ます。部屋の中央に向かって床が傾斜しており、中央の溝から湯水を外へ流す仕組みです。
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奥向部分の主室にあたる「至善堂」の空間です。床の間には「要石歌碑」の拓本が掛けられてあります。明治元年に徳川慶喜がここに恭順謹慎したことで知られ、水戸家出身の将軍の蟄居空間でもありました。
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「至善堂」の入側より表向部分の方向を見ました。「十間畳廊下」の長い建物の右手に「湯殿」および「便所」の建物が張り出しています。
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「至善堂」の入側辺りの景観です。外の空間も内庭のような形になっており、表向きからは見えない部分でもあったため、徳川慶喜が恭順謹慎の場としてここを選んだのでしょうか。U氏曰く、「飛騨高山の陣屋の奥向部分とよく似てるな」でした。そういえばそんな感じですね。
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「至善堂」の北の入側部分で、右には復元された「便所」部分が続きます。ここで過ごした徳川慶喜の胸中はいかばかりであったか、と思われがちですが、実際には色んな学問の本に熱中して科学の実験なども自分で試してかなり充実していた日々であったとされています。
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南側に設けられた「対試場」から表向部分の西側外観を見ました。ほとんど御殿建築と変わらない形式と格式を見せており、最終段階では徳川慶喜の隠居所同然になっていたのも頷けます。
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「対試場」から東の正門の方を見ました。どこかの城郭の本丸御殿とその通用門、といっても通じそうな景観です。各地の藩校の遺構を幾つか見てきた目で見ますと、弘道館という建物は最も御殿建築風に造られた立派なものであるという印象がありました。
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外庭をぐるりと回って、奥向部分の「至善堂」の裏手に回ると、ごく一般的な武家屋敷のような外観に転じます。表の御殿と奥の屋敷との対比が面白い建築遺構だと思います。
ちなみに私がこれまでに見てきた主な藩校遺構の五ヵ所とは、信濃松代藩の「文武学校」、信濃高遠藩の「進徳館」、伊賀上野藩の「祟廣堂」、出羽庄内藩の「致道館」、備前岡山藩の「閑谷学校」です。他にも遺構の例はありますが、規模や建物の数などが揃って現存しているケースはこの五ヵ所に水戸弘道館を加えた六ヶ所でしょうか。
それらの中で、いかにも藩校らしい構えと雰囲気を色濃くとどめていたのは、信濃松代藩の「文武学校」だったなと記憶しています。つまり、今回の弘道館はそれだけ御殿建築としての色彩が濃いと自分なりには感じた次第です。その感想を述べたら、U氏も「なるほどな」と頷いていました。「藩校といったら、中心の建物を講堂と呼ぶところが多いけど、ここには講堂という部屋は無いもんな」と言っていました。
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弘道館の裏手には、旧敷地に含まれて現在は公園となっている区画があります。弘道館を出て、北の散策路をたどって公園へ向かいました。 (続く)