気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く6 その3 「八角のお堂です!!」

2014年06月08日 | 大洗巡礼記

 六地蔵寺を退出するにあたり、もう一度地蔵堂に向かって礼拝し、古代六蔵寺以来連綿と続く法灯に祈りを捧げました。石畳の参道はそのまま境内地を南北に通る中軸線を示しており、それを逆にたどると四脚門を経て南の表参道へと続くはずです。


 が、正しく南の山門跡を通って外に出たものの、表参道は近年までの地表改変のなかに消え、現在の道は山門前にて直角に曲がるのみでした。行きにたどった裏参道は、一部が条里制の南北線に沿った形で境内地の西辺に接するのですが、表参道は痕跡すらとどめていないので、そこから南へ向うには東へ少し迂回しなければなりませんでした。


 南の山門跡から西をみたところです。真新しいコンクリート製の塀の内側には広い参拝者用駐車場があり、そこへ通じる道は南西からつけられていました。


 地図で確認しながら、山門跡から北東へ進み、最初の辻を右折して床屋さんの横を通りました。あとはだいたい一本道なので、迷う心配はなく、周囲の景色を眺めながら南東方向へのんびりと歩きました。


 背後を振り返ると、六地蔵寺の森が盛り上がっていて目立っていました。


 道端には白ツツジが咲いていました。この花を見ると、暦はまさに皐月だな、と実感します。


 しばらく行くと広い車道を渡りました。少し左にずれて再び南東方向へと歩きました。そうしてT字路に突き当たったところで、ふと右手を見ると、次の目的地が見えていました。広がる水田の向こうの段丘上に墓地があり、その中央に八角堂の真新しい茅葺き屋根が見えました。以前に水戸の友人U氏に「文化財修理が完了したらしい」と教えられたお堂のようでした。


 この八角堂がある寺院は仏性寺といい、天台宗に属します。境内地の北半分以上が墓地になっており、参道および山門は反対側にあるようなので、墓地を横切って八角堂に近づくことにしました。


 近づいてみて、古い時期の優雅な八角堂建築の遺構だと実感出来ました。最近まで解体修理が実施されていたといい、その完了直後の美しい姿が私を迎えてくれました。解体修理によって、ほぼ創建当初の姿に整えられたと聞きましたが、全体的には室町時代中期頃の建築のように思えました。堂内に残される墨書などの年記は天正十三年、つまりは戦国時代末期にあたりますが、それよりは少し前に建てられた可能性が高いようです。


 横にある解説板に、仏性寺本堂、とあるように、この八角堂がこの寺の本来の本堂にあたります。本堂が八角堂である例は、法隆寺上宮王院の夢殿が挙げられるように、これも古代仏教の特色の一つです。寺伝では創建を天長年間とするので、六地蔵寺と同じ九世紀成立の密教系寺院であることになります。史実であれば、すでに平安時代の初期に、真言と天台の二つの拠点寺院が、常澄の里に甍を競っていたことになります。その一方の由緒を物語る貴重な建築遺構として、国の重要文化財に指定されています。
 こういう貴重な建物が現存しているものですから、六地蔵寺とともに訪れないわけにはいかなかったのでした。歴史的な魅力が意外に豊富な常澄の里です。


 西側に回ると、八角堂の唯一の扉がありました。つまり、このお堂は西に向いており、これに対峙して礼拝すれば、参拝者は正しく東を向くことになります。この点から考えると、本尊は現在は大日如来ですが、もとは薬師如来であった可能性も考えられます。東方薬師瑠璃光浄土の楼閣を八角に描く経典や仏教画の遺品が幾つかあり、それを具体化した一例がこのお堂であると言えましょう。


 それにしても、軒の線が美しい弧を描いて甍の輪郭を引き締めているのは素晴らしいです。茅葺きだから実現出来る雰囲気であり、瓦葺きだとこういう優雅で繊細な趣が出てこないと思います。


 母屋部分は全て板張りで、いかにも中世期の色彩を濃厚に示しています。古代の八角堂は基本的に壁を土で作って白く塗り、朱色に塗った柱とのコントラストを意識し、金色の瓦や金具とあわせて豪華絢爛さを演出しますが、中世期には質素かつ実用的で繊細な禅宗系の建物が好まれたため、色彩的にも地味な姿の板づくりのお堂か主流になっています。


 軒下に並ぶ軸部の組み物も控え目に造られ、木鼻や拳鼻に彫られた装飾線もあまり目立ちません。武家階級が政権を担った時代には、社寺建築よりも城館や御殿の建築の方に美的表現のエネルギーが注がれていましたから、室町時代ぐらいまでの寺院建築というのはだいたい地味な印象があります。それが再び華美になってくるのは、江戸時代からのようです。


 こちらは現在の本堂です。八角堂の北西にあり、その位置が六地蔵寺の現本堂のそれとほぼ一致するのは、単なる偶然でしょうか。右側に建つ大きな標石には、慈覚大師円仁が弘仁九年(818)に朝廷に奏上した「天台法華宗年分学生式」の発句の意訳が記されます。
 「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心有るの人を名づけて国宝と為す」と起ち上げて「一隅を照らす、此れ則ち国宝なりと」と述べたものの後半部分を抜き出した碑文で、天台宗寺院の境内にはたいていこうした石碑があります。確か、大洗の西福寺にも同じような標石がありましたね・・・。 (続く)

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