素晴らしい景色に囲まれた東伊豆町風力発電所を出て、国道135号線に戻り河津町へ引き返しました。谷津の信号交差点で県道14号線に右折し、伊豆急行線の高架下をくぐり、次の辻で左折して川沿いの街区の中を道なりに進みました。
そうして1キロほど進んで山間の農村エリアに進んで、目的地に着きました。
目的地は、現在は上図の観光案内板の通り、「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」という長たらしい名称になっていますが、1995年に初めて訪ねた時は、古来のままの「南禅寺」でした。「なぜんじ」と読みます。
当地にかつて存在した寺の名前が那蘭陀寺といい、「ならんだじ」と読みましたが、1432年に山津波によって壊滅、残された仏像群を収容して守り伝えてきた里のお寺が南禅寺でした。そのお堂の老朽化と仏像群の保存管理のために2013年に現在の展示施設を境内地に新設、仏像群を移して展示して現在に至っています。
25年ぶりの再訪でしたが、記憶が薄れていなかったために道に迷うことは無く、そして現地の風景も昔のままでした。伊豆急行線の列車車輌が新しくなっていたのが、唯一の変化だったかもしれません。
そして南禅寺および仏像展示館への道も、車道となって幅こそ拡げられたものの、急な登りがずっと続くことは相変わらずでした。25年前はサッサッと登っていたのを思い出し、途中で何度も休む自身に、加齢と衰えを痛感したことでした。
谷間の駐車場から、このような高い位置まで登ってきましたが、参道はまだ続くのでした。伊豆半島のみならず静岡県でも最古クラスの古刹が、このような山奥の高所にひっそりと存在するのです。山間の隠れ古寺、という表現がピッタリあてはまります。
登ること10分あまり、なんとか坂道をたどり切って、昔ながらの境内地の石段前に着きました。25年前と全く変わらない、懐かしい景色でした。
石段を登ってゆくと、南禅寺の本堂が見えてまいりました。長らく無住が続いた寺てすが、地元有志にあたたかく守られて今なお古刹の雰囲気を保っていました。
この本堂に、25年前は仏像群がまつられていたのでした。麓の管理役の家に挨拶して鍵を預かり、えんえんと山道を登ってこのお堂に対面し、自分で鍵を開けて拝観に臨みました。はるばる奈良から車で5時間かけてやってきて、薄暗い堂内に持参の懐中電灯の光を向けつつ、浮かび上がる仏像群の姿に言いようのない安堵と感慨を抱いたことでした。
その初訪問の契機は、大学時代の恩師の、「伊豆へ行く機会があったら南禅寺だけは必ず行くように」との教示でした。当時は仏像の歴史を勉強していましたから、全国各地の見るべき遺品は大体見て回っていたのでしたが、静岡県に関しては鎌倉幕府黎明期の北条氏関連の仏像ばかりを回っていたので、恩師に「それでは足りない、君は平安時代仏像がメインじゃないか」と諭されたのでした。
それで地図を確かめると、伊豆半島の南端でしたから、また遠い僻遠の地だなあと驚きました。韮山とか函南へ行くだけでも大変だったのに、さらに天城を超えなきゃならないのか、と思ったことを覚えています。同時に、そこに静岡県最古の仏像群が残されていることに感動したので、その翌月に休暇を利用して出かけたのでした。
いま、本堂の仏像群は、境内地の一画に建てられた展示館に移されています。上図の右奥の建物です。
もちろん、この展示施設に入るのは初めてでした。立派な建物をつくったなあ、と感心しました。
「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」の公式サイトはこちら。
案内板もありますが、読まなくても全て頭に入っております。
展示館内部の仏像群です。係員のボランティアの方に、かつて訪れた時の事も話して、平安仏像の研究をやっていた旨も伝えたところ、それから色々と話がはずんで盛り上がりました。
なにしろ、ここの仏像群に探究の光を初めて当てたのが私の恩師なのですから、現地ではその恩師の名前はよく知られています。
それで、特別に許可をいただいて仏像群を撮らせていただくことも出来ましたが、かつての薄暗い本堂内のほこりまみれの姿が印象的だった身としては、まるで別の仏像たちを見ているような感じでした。
堂内を模した館内にて明るく照らされ、全てがよく見えるのでした。25年前の拝観では捉えられなかった点も多かったのだな、と気付くまでに時間はかかりませんでした。
この仏像群の最古品は9世紀代ですから、今から1200年ぐらい前の遺品です。これよりも古い平安時代の仏像は静岡県内では確認されていませんから、仏像研究の上では非常に重要な資料の一つです。
古代の伊豆国の国府および国分寺はいまの三島市に所在しましたから、平安時代の仏教文化もそのあたりに栄えたとイメージされがちですが、実際には伊豆半島の南端の河津に最古級の遺品が残っています。古代には海路のほうが主であった伊豆の交通事情をよく反映しています。
河津の「津」は、古代では港を意味しました。しかも天城山から発する川の終点にあたりました。河津が古代より交通の要衝であったことは諸史料にも明らかなので、仏教文化も陸路より海路にて当地に伝わった筈です。漁業の主要拠点でもありましたから、経済的にも栄えていたことは間違いなく、つまりは古代の伊豆半島においては先進地域の一つであったとみられます。南禅寺の仏像群が成立するための環境は充分に整っていたわけてす。
一時間あまり、色々専門的な事も交えて話しつつ見学し、記念にと上図の護札をいただきました。昔ながらの呼称である「南禅寺堂」が朱印で押されてあります。
展示館を辞して、急な山道を降りて谷間の駐車場に戻りました。その途中の景色が25年前と同じでしたから、そのときの私は、当時の若き自身に舞い戻ったような気分でした。 (続く)