気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く8 その5  大瀬崎の灯台と神池

2019年09月15日 | ゆるキャン△

 大瀬崎のビャクシン樹林の最奥の老神木の横から海岸に出る道があり、それを進むと上図の灯台の横に出ました。原作コミック8巻61ページ5コマ目の景色がそのまま広がっていました。

 

 駿河湾が広がっています。コミックの描写どおり、釣り人の姿が見えました。

 

 流木のように見えましたが、広い海岸にポツンと一つだけ転がっていましたので、朽ちてバラバラになったビャクシンの残骸かもしれません。その上に石が二つ積んでありました。

 

 灯台の隣には、塗り直しや補修跡がやたらに目立つコンクリート造の古そうな建物がありました。灯台の管理施設かと思いましたが、どうも違うようなので、試しに周囲を見て回りましたが、施設名表示が見当たりませんでした。不審に思いつつ、見えにくい所もあちこち探して、やっと防衛装備庁の小さなプレートを見つけました。
 するとこれが、現在も使われているという、かつての旧日本海軍の技術研究所音響研究部の実験施設なのか、と思いました。いまは防衛装備庁の艦艇装備研究所探知技術研究部信号制御研究室の大瀬実験所として運用されているようです。

 

 とりあえず、ゆるキャン△原作コミック8巻と共に、記念の自撮り。

 

 原作コミック8巻62ページ3コマ目の景色です。「やっぱり、いいよな、海」と志摩リンが思っていますが、同感です。沖合に旧日本海軍の駆逐艦でも見えれば最高なんですけどね。  (アホかお前は)

 

 ビャクシン樹林へと戻ります。原作コミック8巻62ページ4コマ目の景色です。ここで志摩リンの後姿が描かれています。

 

 程なくして神池のほとりに出ました。ゆるキャン△気分で見ると、まるで四尾連湖に来たみたいです。

 

 原作コミック8巻62ページ5コマ目のアングルに合わせてみようとしましたが、広角レンズでないと無理ですね・・・。ベンチ前の木の標識は、コミック画には描かれていません。

 

 説明版です。戦前の文体のような、難しい文章で重々しく書かれています。難読漢字も多いので分かりにくいかもしれませんが、要するに神池は、海に突き出した細い半島の先端に位置しながらも、自然の淡水池である、と述べられています。

 海水が陸地に隔てられて何千年も経てば、雨水によって自然に淡水化が進行するとされていますが、そのメカニズムはよく分かっていません。世界各地で人工的に海水を淡水化する事業が展開されていますが、膨大なコストと有害物質の発生などが問題になっています。
 ここ神池の場合は、白鳳時代の海底隆起による陸地化の後に池が成立していますから、千三百年余りしか経っていないことになりますが、その時間で海水が自然に淡水化するのかどうかはよく分かりません。
 なので、説明版では「奇異」とありますが、同感です。

 

 しばらく立って眺めていると、付近の水面がにわかに波打ってきて、岸でポチャポチャという音が響き始めました。

 

 つられて見下ろすと、大量のコイが集まってこちらに大きな口を開けてエサ待ち状態なのでした。原作コミック8巻63ページ2コマ目そのままでした。参ったな、志摩リンの気持がよく分かるな、と思いつつ、「ちょっと待っとけ」と4コマ目のリンと同じセリフを口にしました。

 

 近くにあるコイのエサの自販機です。原作コミック8巻63ページ5コマ目にそのまま登場します。100円で豆粒みたいなエサのパックを買い、コイの群れに少しずつ放り込みました。
 水面に散らばるエサに水飛沫を上げて荒々しく殺到するコイを眺めつつ、こいつらも荒ぶってやがるぜ、と笑ってしまいました。
 なので、楽しくなってきてエサやりに熱中し、エサなどの写真を撮り忘れました。あちゃー。

 

 池の畔にある祠と説明板です。原作コミック8巻64ページ3コマ目の描写に出てきます。その前で志摩リンがエサの箱を丸ごと落として、あっという間にコイたちに食べられてしまうわけです。
 私は落としませんでしたので、エサが各方向に均等に散らばるように放り投げてやりました。どこでもコイたちが群がるのを見て、この神池にはコイがどれだけ居るんだろう、と思いました。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く8 その4  大瀬崎へ

2019年09月14日 | ゆるキャン△

 北条氏関連史跡を巡った後、「ゆるキャン△」の聖地巡礼に移りました。この日は一ヶ所、原作コミック第43話で志摩リンが訪れた大瀬崎へ行きました。大瀬崎は「おせざき」と読みます。

 北条氏邸跡を出て、狩野川を西へ渡ると伊豆長岡の温泉街に入りますが、そのまま西へ抜けて伊豆縦貫道の高架下をくぐり真っ直ぐ進むと、丘を越えて沼津市の内浦に出ます。ラブライブの聖地として有名な内浦湾の港町です。海に面した交差点を左折して、県道17号線をひたすら西へ走りました。
 右手には駿河湾の広い海面が広がっていましたが、道は海岸線に沿って蛇行し、各所で幅も細くなったりで、景色を見ている余裕はなかなかありませんでした。しかし、距離的には内浦からでも30キロ未満ですので、30分余りで大瀬崎に付きました。

 大瀬海岸への分岐に右折して坂道をうねうねと下っていくと、突き当りに海岸沿いの街区があり、道の終点は上図の大瀬駐車場でした。1時間300円ですが、結果的に大瀬崎の志摩リンルートを全部なぞっても50分ぐらいでしたので、支払いは300円で済みました。

 

 駐車場からすぐに海岸線に出ました。この大瀬海水浴場は、国内有数のきれいな海水浴場として全国に知られています。内海と外海の海相の違いがはっきりしているため、水が澄んでいてサンゴ等が海中に華麗な花を咲かせます。それでスキューバダイビングの聖地の一つにもなっています。
 
 この日はスキューバダイビングのイベントがあったようで、上図に見える人々は全員ダイバーでした。主催スタッフらしき人がメガホンで「345番の方ー」と呼んでいたので、それ以上の人数が集まっていたようです。なので、海岸沿いの旅館や店舗はどこも満員のようでした。

 志摩リンが訪れたのは3月ですから、このような夏の海の喧騒とは無縁です。上図はコミック8巻60ページ3コマ目のアングルです。このルートを志摩リンが岬の先端まで歩いていったのです。

 

 海水浴場の端の道をしばらく歩くと、砂浜が広くなる一帯に出ます。海水浴場の一部ですが、スキューバダイビングのイベントは砂浜の半分ほどを借り切って行われているようでしたので、区域外のこちらは静かでした。

 

 旅館街を振り返りました。駐車場から約400メートルぐらいの地点です。

 

 海水浴場の境界線もなっている外堤です。コミック8巻の60ページ4コマ目で志摩リンが見た堤防です。

 

 次の5コマ目に登場する、大瀬神社の鳥居です。

 

 鳥居をくぐって少し進むと、コミック8巻の60ページ6コマ目の景色のスポットに至ります。ここからの境内は有料となり、志摩リンも参拝料を払っています。

 

 この時は社務所の係員が不在でしたので、窓口の案内にしたがって奉賛金つまり参拝料100円を上図右の木箱に投じました。

 

 少し進むと、コミック8巻の61ページ2コマ目そのままの景色が迎えてくれます。志摩リンがスマホで撮影し、「すげー、荒ぶってる」と言った場所です。

 

 おお、なかなかの迫力です。
 この大瀬崎のビャクシン樹林は、日本最北端の自然群生地とされ、昭和7年に国の天然記念物に指定されています。約130本の樹林のなかに古い巨木が幾つも生い茂ります。強い潮風にもまれもての形でしょうか。

 

 現地の案内板です。コミック8巻の61ページ2コマ目にも描かれていますので、志摩リンも読んだのでしょう。

 

 大瀬崎の内海を背に、ビャクシンの老木を見ました。表情が豊かなので、どこから撮っても絵になります。

 

 あちこちに、独特の樹相を示す古木がそれぞれの荒ぶる様を示して見る者を圧倒してきます。

 

 ひときわ大きな、樹齢千年以上とされる老大木です。私自身はビャクシンというと、奈良の春日大社境内の原生林のそれを思い出します。あちらも千年近い老木が幾つかありましたが、こちらの木のように荒ぶってはいませんでした。

 

 この木が最も荒ぶっています。現地の強い潮風にさらされての結果なのでしょうが、それ以上に大自然の悠々たる営みの迫力を感じさせてくれます。なにか神々しい雰囲気すら漂います。わだつみの海神が降臨なさるとすれば、このような森厳たる樹相のなかにおいてでしょう。

 

 裏に回ると上図の解説板がありました。実際に御神木として崇められていることが分かりました。やっぱりなあ、と納得しました。

 大瀬崎は、伝承によれば七世紀、白鳳時代の地震により海底が隆起し、琵琶島(びわしま)として出現したのが始まりです。その後、砂洲が形成されて陸続きとなり、現在の姿に至っています。弓状の形をした半島の長さは1キロメートルにも及びます。
 なので、歴史的にも海や海神に対する信仰の拠点として知られています。大瀬神社は正式には引手力命神社といい、平安時代の延喜式神名帳に記載される「引手力命神社」にあたるのではないかと考えられていますが、同名の古社が伊東市の大室山北麓にも鎮座するため、確定には至っていないようです。  (続く)

 


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知波単学園 九七式中戦車(細見車) 作ります!! その5

2019年09月13日 | ガルパン模型制作記

 ラストのステップ8では、上下の車体を貼り合わせ、履帯を装着します。そしてスコップやツルハシなどの車外装備品をセットします。

 

 まずは、上下の車体を貼り合わせました。今回の砲塔交換に伴う軸部の改造は、ブラ板を車内に仕込みますので、それが終わらないと上下の車体を貼り合わせることは出来ませんでした。

 

 続いて、作業中に破損するのを防ぐために接着を後回しにしていた小さなパーツを取り付けます。

 

 右側に、昇降用のハンドルC11を取り付けました。旧陸軍の戦車兵だった方の話では、搭乗時に背面から登ってフェンダーをたどって砲塔周りにあがったそうなので、このハンドルは昇降用にはあまり使わなかった、荷物や装備品を輸送するときに縄を括り付けたり、擬装用のシートを掛ける際に金具をひっかけたりした、との事でした。

 

 背面のハンドルB26およびB28も取り付けました。

 

 履帯は塗装後に装着しますので、砲塔をセットしたこの段階で、今回の塗装前の組み立て工程は完了となります。

 

 ファインモールド品で作った西隊長車(右)と比較してみました。

 

 ほぼ一緒ですね。タミヤ品(上図手前)の妙なツルツル感が目立ちますが、ブラ材の質が異なるのでしょうか。

 

 しばらく見比べていて、細かな差異があることに気付きました。

 

 前部左右フェンダー上のリベット2個ずつ、左フェンダー内側のアンテナ支柱用の穴が、今回のタミヤ品(上図左)では省略されているのでした。

 

 そこで、ファインモールド品を参考にして、同じようにリベットと穴を追加しました。

 

 これで、だいたい劇中車仕様になったと思います。次は塗装ですが、まだ暑さと多湿が続く時期なので、これも前作の西隊長車同様、しばらく仮保管することにして、別の車輌の製作に移ることにしました。  (続く)

 


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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く32 その5 「ガルパンギャラリーです!!」

2019年09月12日 | 大洗巡礼記

 ガルパンギャラリーに行きました。最近はギャラリーというよりショップとしての色彩が濃くなっていますが、ガルパン公式および大洗町のガルパン関連商品販売の中心拠点である点はもとから変わっていません。見学よりも買物を目的にやってくる人が増えている状況を、そのまま反映しているのでしょう。
 現に、今回も、ギャラリーの見学者よりも販売コーナーを回っている買物客のほうが格段に多かったです。

 

 なので、ショーウインドーに陳列される品々も、現行販売品ばかりです。

 

 なので、ディスプレイとみられる一番くじのフィギュアを、商品と勘違いしてレジに持っていく人が居ました。見分けがつかないのでしょうね。

 

 このあたりは、あんまり展示内容が変わっていません。

 

 プラモデルのジオラマ展示は、開設当初からのケース陳列がそのまま維持されているようです。

 

 個人的には、これが好きでしたね。一年なめんな、なめんな!の台詞が良い響きでしたから。

 

 ですが、ガルパンプラモのモデラーに多くの影響を与えたのが、この作品でしょう。真似して自身なりに同じジオラマを製作している方が何人もおられますね。

 

 ギャラリー内の展示品の大半が、各宿泊施設のガルパンプラン特典品、イベント時の各店舗の限定配付品などで占められています。以前より数は減らされているようなので、全体的に迫力がありません。昔はもっとボリュームがあって、「世界よ、これがガルパンの品々だ」感が濃厚であったのですが・・・。

 

 公式や協賛の品々のショールーム、というのが実態に近いですね。下手な博物館や三流の美術館に通じる雰囲気がただようのは仕方がありません。オリジナリティ溢れる創造品や芸術品が無いのですから、ただの企業の製品陳列と大差がありません。

 

 今なお増え続けている公式ガルパン缶バッジの全てを網羅するには、既にケースが小さすぎました。収容しきれなくなってからもう二、三年が経過しているはずですので、ここに展示されていない品も相当な数に登るでしょう。

 

 パネルはココスのキャンペーン時のものが並びます。ココスでいつまでも展示しているわけにいきませんから、最終的にこちらに引き取ったという感じが漂います。特定の協賛企業の関連品が相当のスペースを占めるギャラリーというのも、あまり見られませんので、その意味では珍しいと言えるかもしれません。
 ですが、ガルパンのコラボパネルというのはかなりの種類、数があったはずなので、それぞれのパネルを一つずつ並べたほうが、見る側としてはもっと楽しめることでしょう。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く8 その3  北条氏の夢の跡

2019年09月11日 | ゆるキャン△

 函南から県道11号を西下し、国道136号線下田街道に左折して南下、10分ほど走って韮山に至り、願成就院に行きました。門前駐車場の範囲も旧境内地に含まれ、上図の標石が立っています。

 願成就院は、鎌倉幕府の初代執権を務めた北条時政が北条氏の氏寺として建立しました。その創建を「吾妻鏡」では文治五年(1189)と述べますが、その安置仏像は運慶によって既に三年前の文治二年(1186)から造り始められているので、文治五年は寺としての構えが整って経営が始まった時期を示すのでしょう。

 

 寺は、その後も堂塔の建立が続いて規模を拡大しています。『吾妻鏡』にもその経緯が散見されますが、昭和45年の発掘調査によって南塔、南新御堂などの位置が確認され、また北側には庭園の池が広がっていたことが測量調査にどによって判明しています。北条時政、義時、泰時の三代によって完成した浄土系伽藍の構えが明らかになっています。
 上図は、南塔跡で、基壇が復原され、発掘調査で出土した礎石が並んでいます。

 

 現在の境内地は、創建時の面積の四分の一以下になっているとされますが、それでも地方の古刹としては広いほうに属します。江戸時代の藁ぶき屋根の旧本堂と、昭和30年建設の鉄筋コンクリート造の大御堂とが並びます。上図の奥に見える建物が大御堂です。

 

 私が初めてこの寺を訪ねたのは、昭和62年8月、大学三回生の時でした。ゼミの先輩達と、この寺に伝わる運慶の作品群を拝観するためでした。
 あれから30年余り、元号も平成、令和と転じました。御覧の通り、くたびれて黄昏つつある貧相な男に成り下がりましたが、初訪時の心の鼓動と渦巻くような感動は、今も胸に鮮やかです。

 

 境内地の墓塔墓石群です。かつては境内内外に散在していたもの、発掘調査等で出土したもの、などを一ヶ所にまとめています。それにしては中世期の遺品が少ないです。鎌倉幕府滅亡後の衰微退転ぶりが伺えます。

 

 境内の一画には、北条時政の墳墓があります。北条氏は歴代がそれぞれの菩提寺を持ったため、墓所もばらばらに所在しています。武家の一統が墓を同じくするのは、江戸期になってからです。

 

 大御堂に行き、久しぶりに運慶作の国宝の仏像群を拝しました。
 その仏像群の詳細については、願成就院の公式サイトを御覧下さい。

 

 願成就院を含めた韮山守山の地は、鎌倉幕府だけてなく、次の室町幕府の重要拠点にもなりました。六代将軍足利義教の四男の足利政知が鎌倉公方として下向したものの、一族の足利成氏との対立から関東に入れず、ここに館を構えました。成氏が下総の古河で公方を称したため、これに対して現地の地名である堀越にちなんで堀越公方と呼ばれました。その御所の広大な遺跡が、願成就院の北にあります。

 

 現地では、昭和57年と昭和60年に発掘調査が行われ、堀越公方の活動時期と重なる15世紀代の遺跡と遺物が発見されました。室町幕府の地方政治拠点の実態が示される重要遺跡として国の史跡に指定されました。
 さらに、遺跡の下にさらに13世紀代の遺跡か確認されており、伝承にいう北条時政の邸宅跡ではないかとされています。

 

 現地に立つ遺跡案内解説板です。上図の②が現地の堀越御所跡、⑥が願成就院、そして①がこれから訪ねる北条氏邸跡です。

 

 堀越御所跡の向かいには、道をはさんで上図の石標が建っています。北条政子の産湯の井戸が奥にあります。

 

 これがその井戸です。北条政子の産湯の井戸かどうかはともかく、付近の一連の遺跡遺物と同時期のものであるのは間違いないようです。一個の方形石をくり抜いて作られた井戸枠が見事です。後世の石組み井戸とは全然違う贅沢さです。鎌倉幕府の経済力のほどが伺えます。

 

 この広い空間は、まだ発掘調査が実施されてませんが、北条氏にまつわる井戸がありますから、この範囲も北条時政邸宅の一部にあたるのかもしれません。

 

 西側の狩野川ぞいの地に、上図の守山西公園かありますが、その一帯が北条氏の邸宅跡です。

 

 鎌倉幕府は、文字通り鎌倉に置かれましたが、執権歴代の北条時政、義時、泰時らはここ伊豆北条の邸宅を本拠地として、鎌倉との間を頻繁に行き来しています。一所懸命、の語句の通り、本貫の本拠地を大切にする鎌倉武士の典型例といえます。

 

 北条氏邸は、鎌倉幕府滅亡ののち、一族の寡婦や女児が集まり住むところとなり、多くの戦没者の鎮魂のために円成寺という尼寺が建てられました。
 一帯は、平成4、5年に発掘調査が行われ、上図の奥の広い範囲で邸宅跡および寺院関連の遺跡か検出されました。遺跡遺物の年代観から、北条氏邸および円成寺の跡であることがほぼ確実となり、国の史跡に指定されています。

 

 発掘範囲の外にも、関連遺跡とみられる土壇が並びます。右のマイカーと比べれば、土壇の大きさが分かるでしょう。
 この土壇は守山と呼ばれる丘陵の北端の尾根を削って造成されたらしく、上にもさらに郭のような削平地が二段あります。守山の山頂には詰めの砦であった守山城がありますから、その関連遺構であるかもしれません。

 

 しかし、現地にいると、次第になんというか、空しい気持ちに沈んでゆくのでした。

 かつては、日本の歴史上最も独裁色の強かった軍事政権であり、その擁する軍事力は実質的に300万騎余りであったとされ、当時の世界においては最強クラスの陸軍であった鎌倉幕府でした。
 室町幕府や江戸幕府のような倫理観や道徳思想はまだなく、実態としては殺戮、強奪、放火などやりたい放題のヤクザ同然の連中が御家人を名乗って源頼朝のもとにはせ参じて忠誠を誓ったのが鎌倉幕府の武力の始まりでしたから、当時の人々にとっては恐怖の的でした。
 近畿地方を管轄する一機関に過ぎない六波羅探題ですら、50万騎を擁して睨みをきかせ、天皇や公家も圧倒され恐れるのみでした。

 しかし、そんな恐ろしい連中が、御家人としての第一の任務である、有事の際の滅私奉公、を一時たりとも忘れずに武芸の鍛錬に励んだことが、結果的に日本を危機から救うことになります。二度の元寇の来襲を受けて全て撃退したのです。
 幕府とは、その長たる征夷大将軍とは、征夷の称の通り、外敵より国を護る事が第一の任務である軍事ポストですから、鎌倉幕府はその機能を正しく発揮したことになります。当時の執権は北条時宗、見事に祖国防衛の総指揮の大任を果たしてくれたわけです。これだけは、どんなことがあっても、日本人として感謝せねばならない、と私は思っております。

 ですが、史上最強クラスの軍事政権でさえ、歴史には勝てないのです。栄華を誇ったであろう北条氏の本拠地に、いまは何も残っていません。栄枯盛衰とはこのことか、祇園精舎の鐘の音が聞こえてきそうだな、思いつつ、記念の自撮りをやりました。

 しかし、いつまでも感傷にひたっているわけにはいきませんでした。次の移動から、本格的に「ゆるキャン△」聖地巡礼になるからでした。  (続く)

 


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知波単学園 九七式中戦車(細見車) 作ります!! その4

2019年09月10日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7からは砲塔を組み立てますが、劇中車は砲塔が旧型タイプであるので、同じMMシリーズ75番のキットの砲塔部分を全て転用します。組み立てガイドも、75番のキットの該当部分を参照します。
 また、砲塔の交換による改造工作が必要になりますが、それらに関連するのは底面パーツのC23のみであり、この段階では組み付けないでおきます。したがって、後のパーツは全て組み立てておくことになります。

 この砲塔交換が、今回の劇中車再現制作における最大のヤマ場となります。砲塔交換にあたっての改造工作は、私なりに考案した簡単な手順で進めます。厚さが1ミリ以上のブラ板を用意します。

 

 続くステップ8でも、ガイドの指示通りに組み立てを進めますが、信号灯のC24は細見車には見られないので不要となります。また機銃架のB1は、アーム部を劇中車に合わせて横向きに直します。
 なお、砲塔交換設置にともなう諸工作が終わるまでは、鉢巻アンテナのC34は破損防止のために取り付けないでおきます。

 

 砲塔の組み立てに先立ち、改造工作の準備をします。上図のように1ミリ厚のブラ板を、長さ4センチ幅1センチにカットしたものを1枚、長さ3.5センチ幅1センチにカットしたものを1枚、用意します。

 

 それぞれのブラ板の中央に、上図のように丸い穴をピンバイスなどであけておきます。穴の大きさは、ランナーの直径に合わせますが、長いほうの板の穴は若干大き目に調整します。

 

 これで準備完了です。

 

 砲塔の組み立てを指示通りに進めます。底面パーツのC23だけは取り付けないでおきます。

 

 全て組み上がりました。信号灯のC24は不要、機銃架のB1は、アーム部を劇中車に合わせて横向きに直しました。

 

 続いて、底面パーツのC23に改造を施します。回転部の出っ張り部分を全てカットします。

 

 このように、全部カットして、突起部分を無くします。

 

 次に、ひっくり返して床面を上にして、短いほうの3.5センチのブラ板を、C23の両端の方形穴を目安にして中心の穴が砲塔の中心軸位置にくるようにセットして接着します。

 

 続いて、ランナーをカットした棒を、ブラ板の中心穴に差し込んで接着固定します。

 

 接着剤が固まったら、底面パーツのC23を砲塔下に取り付けます。御覧のように、ランナーの棒が砲塔の中心軸になります。底面パーツのC23は、砲塔本体底面よりも上に固定されますが、問題はありません。

 

 その砲塔を、設定資料図などを参照して所定の位置にマスキングテープなどで仮固定します。砲塔がズレたりしないように四方から貼りつけてしっかり固定することが大事です。

 

 裏からみるとこうなります。新車台と旧車台の砲塔の位置が完全に異なるのが分かります。

 

 続いて、長い4センチのブラ板をもってきて・・・。

 

 砲塔中心軸のランナー棒にそのままはめ込みます。穴を若干大きくしておけば、砲塔の回転もスムーズになります。この状態で車体との接触面を接着して固定します。

 

 あとは、接着剤が乾くまでの間、テープでの仮固定をそのままにして、鉢巻アンテナを取り付けます。改造ブラ板が接着固定したら、テープを全てはがして完了です。

 以上で、タミヤキットにおける、砲塔の交換設置が完了します。従来紹介されている、砲塔の穴を削って移動させる工作よりは、はるかに楽な方法です。旧車台に新型砲塔を載せる際の改造も、同じ手順で出来ます。いかがでしょうか。  (続く)

 

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く32 その4 「アウトレットです!!」

2019年09月09日 | 大洗巡礼記

 さくらい食堂でざる蕎麦の昼食を終えた後、アウトレットへ向かいました。途中の休憩スペースのつるもの棚の見事な繁茂を見ました。
 上図右の看板を見て、やっぱり「まいわい」は大洗では漢字で「万祝」と書くのだな、と納得しました。大洗が海岸沿いの漁村から出発した地であれば、むしろ当たり前のように知られていることでしょう。

 本来、「万祝」とは、古来は「間祝」もしくは「真祝」と表記し、「まいわい」は「まんいわい」とも読みました。西日本では瀬戸内海や四国南岸、山陰の海岸沿いに広く伝わる海の行事の名前で、漁師や漁労民が大漁の際にお祝いをする儀式を指します。「ま」は古代より幸福や幸運を意味する言葉であるため、漁労民は大漁に感謝して祝う時に「祝」の前に「ま」を付けて感謝の気持ちを深めたのだとされています。

 江戸時代までは、大漁のさいに、網元や船主が酒宴を開催し、めでたい品とされた赤帯や赤手拭などを漁労民に配るというのが「まいわい」の基本形てありました。それが次第に金銭に置き換えられた地域が多いため、「間」や「真」を数字をあらわす「万」に換えたところが殆どです。

 なので、民俗学的見地でみれば、「まいわい」の「ま」を「間」や「真」のほうで表記している地域は、漁労文化の祭事形態も古式を伝えていることが少なくないのです。そもそも「まいわい」の発祥地が千葉県の房総半島の漁村であることを思えば、近隣にあたる大洗の「まいわい」が「万祝」と書くのは、早くから祝い品が金銭に置き換えられた場所であったことを示すのかもしれません。

 

 夏の盛りを謳歌するかのように咲き誇る、ムクゲです。

 

 こちらは、ハイビカスカス・・・いや、タイタンビカスでしたかね・・・・。

 

 アウトレット施設の南側に店を構えるサザコーヒーに立ち寄りました。ちょっと一服を、と。

 

 話題のマリー様のモンブランケーキは・・・、とメニューを探しましたが見当たりませんでした。さては特定日の限定品だったかな、と店員に訊ねたところ、土日曜のみの提供であるとの事でした。
 そこで、普通にコーヒーだけをいただいてまったりしました。

 

 その後、ゆるゆると施設内を移動しました。夏の風情がよく似合う外装の建物なので、どこから撮っても絵になります。

 

 マリンタワーも見えましたが、その前に大きなスーパーマーケットの真新しい建物が横たわっていました。

 

 二階のプロムナードをブラブラしていて、上図の洋食店「ピアジェ」の店先で立ち止まりました。

 

 そういえば、大洗で洋食の食事をしたことは殆ど無いな、と思いました。いつもガルパン協賛のお店で海鮮料理か蕎麦をいただいていたので、上図のような美味しそうな洋食メニュは、かえって珍しく感じられます。次に機会があったら、このお店で食事してみよう、と決めました。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く8 その2  桑原の薬師堂へ

2019年09月08日 | ゆるキャン△

 「かんなみ仏の里美術館」にて24体の仏像群と久し振りの対面を果たし、しばらく鑑賞の時を過ごした後は、館内の解説ボランティアの方々と色々話をして、現地の最近の状況などを伺いました。

 その際に、仏像群の元の安置場所であった桑原の薬師堂はどうなったのかを訊ねたところ、「まだありますよ。今は会所みたいな感じで皆さんで使っとりますよ」と教えられました。

「すると、お堂自体は、まだまだもつんですか?」
「まあね。屋根とかかなり傷んでましてね、雨漏りもするようになったんで応急修理なんかはやりましたけどね、でももう、仏像を地元の有志だけで守っていくんも限界があるわけで。元来、こういう仏像とかの文化財の保全管理ってのは行政がしっかりやってくれることも多いんで、それで寄付して管理してもらっとるわけですな。お堂のほうもまだまだ使えるやろうし、とりあえずは現状維持のままっていうことでね」
「あのお堂は、確か明治の建物でしたね」
「そうそう、そうです。そんなに古くねえし、仏像をずっとお祀りしていってもあんま、問題はねえんですけどね、でも仏像とかの文化財の保存とか管理とかは別次元の問題になるんでね、そちらはそれなりの対策を講じないと駄目なわけでね」

 聞いていて、そうだろうな、と納得しました。なにしろ桑原薬師堂はいわゆる村の草堂タイプの建物で、いちおう所有者の長源寺が管理元になっているものの、住職が不在がちで防犯上の不安が常につきまとっていたのです。仏像が盗難にあいかけた事も何度かあったそうです。
 なので、諸々の事情があったとはいえ、新設の美術館に移安したのは、まずは防犯対策だろうな、と受け止めました。

 ともあれ、かつて二度訪ねた桑原薬師堂が健在だということなので、立ち寄ってみることにしました。美術館から歩いて5分ぐらいなので、車は美術館の駐車場に停めたままにしました。

 

 美術館の前の辻に、上図の看板が建てられています。昔訪ねた頃は、もっと素朴な木札の案内標識だったのですが、この大きくカラフルで目立つ看板に置き換えられたようです。

 

 途中、来光川に架かる橋を渡りました。周囲の景色は、20数年前とあんまり変わっていませんでした。

 

 薬師堂を含む長源寺境内への参道も、昔のままでした。二度目の訪問の時は車で来て、この道を奥まで進んで寺の参拝者駐車場に入れた記憶かあります。

 

 参道入口より、美術館の方角を振り返りました。上図右手に二つのピラミッドが並ぶように見えるのが、「かんなみ仏の里美術館」の建物です。

 

 桑原薬師堂を所有する長源寺の本堂です。曹洞宗の禅寺ですが、創建は近世であるとかで、あまり詳しいことが分かっていません。つまり、桑原薬師堂やその仏像群との関連性はあまり無く、ただ、これらを守り伝えてきた管理元であった、ということに尽きるようです。

 

 長源寺の本堂手前を右に行って石段を登っていくと、境内を見下ろす高台に桑原薬師堂があります。当地域に伝わってきた仏像群を守ってお祀りするために、地元桑原区の住民有志が浄財を寄せ合って明治の頃に建てたのが、この建物です。

 

 薬師堂の内部です。今は美術館に在る24体の仏像群は、この内陣壇上および厨子内に安置されていたのです。いまはそれぞれの写真が、元の安置位置に置かれています。
 上図の二つの厨子の間の空間に、かつては国重要文化財の阿弥陀三尊像が安置されていました。かつての北条宗時の墳墓堂の本尊ではないか、とみられている鎌倉初期の佳作です。作者の実慶は、名前から奈良仏師の慶派の系譜につながる仏師とみられます。
 当時の慶派のトップであった運慶が、やはり同じ頃に伊豆に来て北条時政の願成就院の仏像群を造立していますので、それに実慶も同行して北条宗時の墳墓堂の仏像群を担当したのではないか、という推定も成り立ちます。鎌倉幕府黎明期に、源氏および北条氏の守護仏として新たに登場した精彩豊かな仏像たちの輝かしい歴史が、その頃に始まったのは、間違いないでしょう。

 

 内陣の右側の四天柱に囲まれた格式ある厨子が、薬師堂の本尊であった薬師如来坐像の元安置位置でした。仏像自体は平安時代の作で、だいたい12世紀前半とみられます。24体の仏像のなかでは古例に属します。
 したがって、桑原の惣堂の元からの本尊である可能性が高く、地元で大切に祀ってきたのも当然と言えます。これに前述の北条宗時の墳墓堂の本尊ではないか、とみられている阿弥陀三尊像がいつのころからか加わっていますので、北条宗時の墳墓堂はこの近所にあったのかもしれません。

 

 薬師堂からも、「かんなみ仏の里美術館」の建物が見えました。直線距離で約300メートルぐらいなので、移したといっても、すぐ近くです。

 

 薬師堂の縁側にしばらく座り、汗を拭き水を飲みながら、昔の訪問時のことも思い出したりしました。若き日の私が、今の私の横を軽やかに通り過ぎて行ったような錯覚にもおそわれました。  (続く)

 


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知波単学園 九七式中戦車(細見車) 作ります!! その3

2019年09月07日 | ガルパン模型制作記

 ステップ4では、車体上部を組み立てます。パーツの組み付けはガイド指示の通りに進めますが、パーツC12においては劇中車にあわせる改造が追加されます。

 

 各パーツを準備しました。

 

 組み立て前に、上図のパーツC12を劇中車の状態にあわせる改造を行います。御覧のように通信手ハッチがありませんので、くり抜いてハッチの穴をこしらえます。

 

 ハッチは、同じMMシリーズ75番の旧型タイプのキットのパーツC2を使用します。これに合わせてハッチの穴をあけることにし、上図のようにパーツC2を定規代わりにして穴を鉛筆でトレースしました。

 

 トレースした線の内側をくり抜き、ヤスリで削って穴をこしらえました。ヒンジ部分はジャンクパーツから同じサイズのものを削り取って転用しました。

 

 ハッチの改造が終わったので、一気に組み上げました。

 

 今回のキットにおける一番の改造作業がこのハッチ穴作りなので、これをクリアすれば、後は簡単な追加工作ばかりになります。従来より指摘され解説されていた、砲塔の穴の移動修正などは一切必要ありません。

 

 続いて、車体前端の星章が薄いモールドのみであったので、削り取りました。ファインモールドのキットで西隊長車を製作した際に余っていた星章パーツをこちらに使用し、ランナーのスライスによって円座も再現しました。
 なお、ライトのパーツB15はレンズのパーツが無く、レンズ部が窪んだ状態になっていますので、ジャンクから適当なクリアパーツをみつくろって、塗装後に取り付ける予定です。

 

 ステップ5では、排気管などを組み付けます。これもガイドの指示通りに進めますが。排気管、ジャッキ、パールは塗装後に取り付けます。
 また、小パーツのB26、B28は破損防止のため、ここでは取り付けずに保管し、組み立ての最終段階で取り付けることにします。

 

 タミヤのキットでは、排気管本体が一体成型のパーツになっています。ガードをエッチングパーツにしていて塗装手順も細かくなるファインモールド製品に比べると、扱い易さが全然違います。組み付けも塗装も手間がかからないこちらのほうが楽です。

 

 仕上がりました。

 

 排気管とジャッキはこの段階では接着していません。上図は仮組みのままです。ファインモールド品と比較してみましたが、殆ど同じでした。国産品2種の相違点はほとんど無くて当たり前、と受け止めました。
 なので、砲塔の交換と据え付けがきっちり出来れば、タミヤとファインモールドの間に差異は感じられないのであろう、と思いました。  (続く)

 


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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く32 その3 「戦車山車と蕎麦です!!」

2019年09月06日 | 大洗巡礼記

 店の外に出ました。二つの方向からかすかに巡行列の囃子の音が聞こえてきましたが、南側のそれが少し大きく聞こえましたので、こちらに近づいているのかもしれない、と考えてその方向へ歩き出しました。

 

 途中のみむら時計店の店先です。祭礼提灯が掲げられていました。

 

 今回は、各店舗におけるカルバン車輌プラモデルの寄贈品などの実態も調べることにしていましたので、ショーウインドーも覗いてみました。以前はカモさんチームのB1bisがあったように思うのですが、今回はこのくろがね四起のピックアップトラックタイプのみがありました。ただ、車体色はアニメ劇中車と異なる緑系になっていました。

 

 日野屋豆腐店の付近まで来たとき、巡行列がやってきたので、道路わきに佇んで見物しました。さきに見た笠間の山車巡行列よりもなにか静かで、あまり掛け声も出ていなくて地味な雰囲気があり、しかも山車をひいている人々が揃いのガルパン法被を着ているのでした。

 

 ああ、これが噂のガルパン戦車山車か、と思い当りました。最初は、関西地方でよく見かける舟型地車のように見えました。

 

 ですが、戦車マークⅣのミニチュア版でした。実物の半分ぐらいのサイズだそうです。

 

 よく作るもんですね。日照プラントさん。中に軽トラが仕込んであるそうですので、自走も可能なのでしょうか。曳いてるのが全員ガルパン巡礼で、年恰好や雰囲気がほとんど一緒なのが笑えました。
 とりあえず、戦車山車を見ることが出来ましたので、ヨシ、でした。

 

 近くのさくらい食堂に入って、遅い昼食をいただくことにしました。

 

 店内のカルバン車輌プラモデルの寄贈品の多さは、相変わらずでした。ただ、新規の追加品があまり無いようでした。初めて見た頃からあんまり変わっていない気がしたので、数年もこのままなのかな、と思いました。

 

 劇中の主要戦車はだいたい揃っているようです。大半のプラモデルに、ねんどろいどぷちの各キャラクターが乗せてあります。

 

 ねんどろいどぷちの各キャラクターは、1/35スケールのプラモデルと合わせて展示してもあまり違和感がありません。なので、キューボラに差し込んで乗せてあるのは当たり前、という感じです。

 

 ねんどろいどぷちのガルパンキャラクターは、重複分を含めて23体が出ていますが、見当たらなかったのは2体ぐらいでした。アッサムとオレンジペコです。専用の車輌を持たないからでしょう。

 

 奥のほうにマウスも見えました。以前は金ピカクリスマス仕様のマウスもあったんじゃないかな、と思いました。

 

 Ⅲ号突撃砲は3つありました。このお店の看板車輌でもあるので、ファンからの寄贈品も多いわけです。ですが、カバさんチームメンバーのねんどろいどぷちが出ていませんので、ちよっと寂しい雰囲気でした。

 

 注文した、ざる蕎麦が運ばれてきましたので、美味しくいただきました。  (続く)

 


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ゆるキャン△の聖地を行く8 その1  伊豆函南へ

2019年09月05日 | ゆるキャン△

 2019年8月31日、京都移転にともなう諸作業および諸手続きが全て完了して数日後、久しぶりに「ゆるキャン△」聖地巡礼に出かけました。4月の身延および諏訪方面への巡礼から、ほぼ5ヵ月後のことでした。

 今回の巡礼地は、原作コミック8巻の舞台である伊豆でした。20代後半から30代前半にかけて仏教美術や中世戦国史の勉強のために3度訪れ、函南、韮山、修善寺、河津、下田の5ヶ所で史跡や古寺を訪ねたりした地域です。なので、アニメ聖地巡礼とあわせて、懐かしの場所も幾つか訪ねてみよう、と考えていました。

 最初の計画では、暑さがやわらぐ9月中旬に実施することにしていました。ところが、絶対に行きたい二つの聖地の一方である堂ヶ島のトンボロが、9月2日に干潮の最低水位に達して作中と同じ状態になり渡れることを気象庁の潮位表で知ったため、予定を10日ほど繰り上げて計画を練り直しました。
 さらに台風接近による天候悪化が9月4日以降、との予報に接し、巡礼期間の最終日を9月3日と決めました。

 そのうえで、原作にて伊豆キャンプが描かれる第49話までの範囲を調べて聖地を絞り込み、まだ全部が出揃っていないように思われた伊東エリアを外して次回に回すことにしました。それで、大瀬崎、天城越え、稲取細野高原、下田の海浜公園と瓜木崎、西伊豆の堂ヶ島、西伊豆スカイライン、達磨山の7ヶ所にまとめて所要時間を算出し、2泊3日ぐらいにおさまるようにしました。

 これに、懐かしの場所も幾つか訪ねるべく追加し、旅中の補給拠点となるガソリンスタンド、コンビニ、食事処、スーパーなどの位置も考慮して、最終的に3泊4日の行程にまとめました。宿は、「ゆこゆこネット」で費用が5000円以下の候補地を絞り込み、温泉利用可を条件として伊豆長岡、下田、伊豆松崎の3施設に決めました。

 かくして巡礼の第一日目となった8月31日の午前7時半に京都を出発しました。京都東インターから名神および新名神を進み、伊勢湾岸道をへて新東名に入り、第一休憩地点と定めた上図の長篠設楽原サービスエリアに着いたのは、9時47分でした。

 

 30分の休憩の後、ふたたび新東名を東上し続けました。原作にて各務原なでしこの父、修一朗が話した「あのどこまでも続く静岡のながーい道」を、ひたすら走りました。

 

 第二休憩地点の駿河湾沼津サービスエリアに着いたのは12時11分でした。施設の建物がお城のような洋館スタイルなのには驚きましたが・・・。

 

 建物の外壁にラブライブの大きな垂れ幕がかけられているのにはもっと驚きました。

 

 内部のあちこちにラブライブのキャラクターパネル、ポスター、タペストリーがありました。なんで、と首を傾げましたが、現地沼津がラブライブの聖地であることにやっと気付きました。

 

 しかも、グッズ類の売店までありました。思いっきり派手にコラボしているようです。もう、どちらを向いてもキャラクター達の笑顔が並んでいました。ファンとおぼしき人も何人か居て、一様に幸せそうな表情で写真を撮り、グッズを買っているのでした。
 これからゆるキャン巡礼に行くんだよ、と自分に言い聞かせずにはいられなかったほどの、濃厚過ぎるラブライブ空間でした。

 身延も五条ヶ丘も、これぐらい派手にバーンとやっちゃいなさいよ・・・。ゆるキャン、気合とノリで完全に負けてますよ・・・。

 

 気を取り直して、二階の展望所から南を見ました。駿河湾の向こうに伊豆半島の陸地が望まれました。

 

 あの陸地の右端あたりが、今日の訪問予定地のひとつ大瀬崎だな、としばし眺めました。天気は予報の曇になるどころか、全くの快晴でした。それは良いのですが、暑さが問題だな、と考えました。
 暑さに弱いので、いろいろと対策を講じなければいけません。飲み物は水にまとめ、ジュースやコーヒー類は避けました。帽子は当然で、タオルも首に掛けて汗がシャツにしみこむのを防ぎました。

 

 新東名の長泉沼津インターから伊豆縦貫道に進み、大葉函南まで行って下に降りました。すぐに左折して141号清水函南線をしばらく走り、東海道線の函南駅の近くで里道に右折しました。

 

 来光川沿いの道を山中に登ること数分、最初の訪問地である上図の「かんなみ仏の里美術館」に付きました。

 

 現地は桑原といい、昔に訪れた時には桑原の長源寺の薬師堂を目指してそこの24体の仏像群を拝したのですが、いまその仏像群はこちらの「かんなみ仏の里美術館」に移されているのでした。大半が国重要文化財および県指定文化財であるために管理保全が必要なのと、薬師堂の老朽化が進んだのとで、2008年に地元桑原区より函南町に寄付されて収蔵展示施設が建てられた、という経緯であったようです。

 

 大学での第一専攻が仏教美術史で、とくに鎌倉幕府黎明期の関連仏像にも興味があったため、20代後半に一度、30代前半に一度、この地を訪ねています。

 鎌倉幕府の初代執権を務めた北条時政の長男で、源頼朝の挙兵に呼応して石橋山合戦で討死した北条宗時がこの地に葬られたといいます。現在も、函南駅の近くには墓塔があります。それとは別に、彼を祀る墳墓堂が存在したことが「吾妻鏡」の記載によって知られます。
 その墳墓堂はいつしか廃絶したようですが、その仏像は桑原薬師堂にて守り伝えられてきた阿弥陀三尊像にあたる可能性が強く、いまではほぼ定説に近くなっています。

 生きていれば源頼朝政権を支えてよきプレーンとなったであろう宗時であり、器量は父の時政以上であったといいますから、その戦死は鎌倉幕府黎明期の一大損失であったに違いありません。この人が生きていたならば、後に時政が専横に走って失脚することも、妹の政子が尼将軍と恐れられるほどに権力を掌握することも、無かったのかもしれません。鎌倉幕府の基盤ももう少し固められたかもしれません。惜しい人材であったのは、間違いないでしょう。

 とにかく、歴史上の一つの物語がこの地に埋もれています。それを今も無言で語り続ける仏像たちが祀られています。ロマン、と言ってよいかもしれません。かつての私はそういうのに憧れて、無理して奈良から鉄道やバスを乗り継いでこの地にやって来たのでした。
 その日の若き自分を思い出し、胸にひたひたと寄せてくる諸々の感慨に身を任せてなにか心地よい気分になりつつ、初めて見る新しい施設の入り口をくぐりました。  (続く)

 


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知波単学園 九七式中戦車(細見車) 作ります!! その2

2019年09月04日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では、車輪類を組み立てます。ガイドの指示通りに進めます。

 

 タミヤのキットではポリキャップがつきますが、あとはファインモールドのキットと大して変わりません。

 

 組み上がりました。

 

 ドンドン組み立てます。何も考えなくて済む組み立て作業は、なかなか楽しいです。

 

 組み上がった分です。

 

 ファインモールドの同部品と並べて比較してみました。上がタミヤ品ですが、ほとんど同じです。

 

 起動輪および誘導輪も比較してみました。左がタミヤ品ですが、タミヤのほうが形状再現にメリハリがあります。誘導輪の穴は大き目で、盛り上がり表現も分かりやすいです。

 ステップ3では、背面の組み立てと車輪類の取り付けを行ないます。私の製作においては、車輪類は塗装後の組み付けとなります。

 

 背面の各部品のパーツです。

 

 このうち、背面装甲板のB36において、ガルパン仕様への修正を行います。劇中車はナンバープレートを付けませんので、B38は不要となります。その取り付け穴を削って埋めます。

 

 修正後の状態です。ふたつの穴は、ブラ棒を差し込んでカットして埋めました。

 

 こちらもワイヤーと留め棒は塗装後に取り付けますので、箱だけを組み立てました。

 

 箱をセットしました。

 

 牽引ホールドのB40を取り付けました。車体を水平にして、パーツが真下に垂下するようにしました。このホールドのパーツは、若干大き目に作られているようです。

 

 比較してみると、右のファインモールド品の牽引ホールドの方が実車通りのサイズに近いようです。

 

 足回りの転輪類は、塗装後に組み付ける予定です。上図のようにランナーに付いたまま保管しました。  (続く)

 


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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く32 その2 「梅原屋の展示品です!!」

2019年09月03日 | 大洗巡礼記

 笠間の山車巡行列を見送った後、梅原屋の店内に進みました。店先のガルパンフラッグは健在でした。

 

 大洗においては最大最強のガルパンプラモデルコーナーとして勇名をとどろかせる梅原屋の展示コーナーですが、新作品が3点追加されていました。

 

 これは大洗サメさんチームのマークⅣですね。作者Nさんの基本製作スタンスである、オリジナル補完付きのスーパーフルインテリア仕上げが光っています。

 

 西住家の戦車ガレージのジオラマです。前回は修理中だったフルスクラッチのフォークリフトが復帰していました。

 

 聖グロリアーナ女学院チームのキャンプ「ぐろキャン」は、まだ未完成のままです。アッサムとルクリリと、Nさんのアレがまだなのです。

 

 もはや説明を要しない、絶対王者の空間です。がんばれ黒森峰!
 ということで、今後はライフィールドのパンターが加わることでしょう。Nさんの大好物であるインテリアキットですから。無いものはサクッと補完してしまいますから問題はありません。

 

 

 ティーガーⅠのインテリアキットを撮影する私の姿が映ってしまっています。なんだか地縛霊のような暗さが漂っていて、自分でも隠れて消えてしまいたくなります。

 

 この範囲は、もう、レッツゴー、サンダース!ゴー、アヘッド!てなもんですね。

 

 戦車が色々あります。ジオラマもそうですが、既に量では他をはるかにしのいでいます。しかし、最終章第2話に登場したヴァイキング水産高校やボンプル高校、マジノ女学院、青師団高校などの一回戦敗退組の車輌はまだありません。
 そこで、個人的希望としては、コアラの森学園チームで何かギャグを織り込んだジオラマを作っていただきたいな、と思います。もちろん、センチネルAC1は必須ですね。

 

 このポルシェティーガーも、いずれNさんは作り直すのでは、と思います。アミュージングホビーの新製品にライフィールドのエレファントのインテリアキットを合わせて、オリジナル補完付きのスーパーフルインテリア仕上げにするのは、もはや時間の問題でしょう。

 とりあえず、大洗に来ていることをNさんにツイッターで連絡したところ、昼過ぎに行くとの返事がきました。それまで一時間余りあったので、他へ見物に出かけることにしました。  (続く)

 

コメント (2)
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知波単学園 九七式中戦車(細見車) 作ります!! その1

2019年09月02日 | ガルパン模型制作記

 ガルパン最終章第2話における、知波単学園チームの目の覚めるような活躍振りにより、プラモデル製作のほうでも一気にブームになった感のある、旧日本軍九七式中戦車チハ以下の知波単学園車輌群です。既にファインモールドより公式キットが発売されていますが、この盛り上がりによってあっという間に市場在庫が売れて完売が続出したようです。
 次善の策として、ファインモールドのベースキット、そしてタミヤの上図のMMシリーズの製品2件が適応キットに挙げられ、これまたガルパンファンが争って買い求める成り行きになったようです。

 しかし、タミヤのキットは、ファインモールドのキットがガルパン劇中車そのものズバリであるのに対して、幾つかの改造が必要であるため、ファインモールド製品に比べると人気がなく、購入頻度も高くなかったようです。
 ですが、作り易さという点では、タミヤ製品のほうが勝っています。この長所を生かしてゆければ良いのですが、劇中車を再現する際の難点として、砲塔の交換が必要であり、セッティングに相当の改造を要すると指摘されていることが挙げられています。
 その改造の要領は、モデルグラフィックス2019年8月号の「パンツァーアナトミア」第16回の記事にて分かりやすく述べられています。しかし、それが最適解であるかというとそうではなく、もっと手間のかからない方法もあります。

 その方法を模型サークルの定期会合にて披露したところ、「それは簡単だ、初心者でもやれるんと違うか」という話になり、「ブログで紹介すべきだ、そうしたほうがガルパンファンのモデラーみんなが楽しめる」という結論にまとまりました。
 本来、知波単学園チームの戦車群は私の計画には無かったため、タミヤのキットで劇中車を作る予定も無かったのですが、一連の盛り上がりの中で、西隊長の搭乗車をファインモールド公式キットにて製作しました。その過程にて、ファインモールド製品の市場在庫の不足が指摘されはじめたため、タミヤ製品でも劇中車を作る試みがにわかに選択肢として浮上したのでした。

 そうなると、同じ九七式中戦車チハ、新車台と旧砲塔の組み合わせの劇中車を二つのメーカーの製品で作る形になります。メーカー毎の特徴、キットの個性なるものも見えてくるかもしれない、と興味が沸きました。複数の製品を比較検証しながら製作するというのは、常に色々な気付きや発見を伴いますので、個人的には面白いと言えば相当に面白いのです。よし、やってみよう、という気分になるのに時間はかかりませんでした。

 そこで、西隊長と同じ九七式中戦車チハ、新車台と旧砲塔の組み合わせの車輌に搭乗している副隊長格、知波単二番槍の細見に着目し、西隊長車とは異なる塗装パターンに挑戦する意味合いも兼ねて、今回の製作テーマに定めました。

 

 劇中の九七式中戦車チハの、新車台と旧砲塔の組み合わせをタミヤ製品で作る場合、キットは新旧の2点が必要になります。タミヤ製品は、旧型と新型とを順にキット化しており、MMシリーズの75番に旧型タイプ、137番に新型タイプを入れています。前者は旧車台と旧砲塔、上図の後者は新車台と新砲塔の組み合わせですので、劇中車に合わせるには、双方の砲塔を入れ替える必要があります。
 それで、上図のMMシリーズの137番にて、車台のみを組み立てることになります。

 

 そして、上図のMMシリーズの75番より、砲塔部分をもってくることになります。さらに、ハッチのパーツC2も必要になりますが、これは同じパーツをブラ板で自作しても構いません。

 

 かくして、MMシリーズの137番にて、車台を組み立てることにしました。タミヤのパーツは数も抑えられて組み合わせも良く、気軽に進めることが出来ますから、今回もリラックス出来ました。
 なお、組み立てにあたっては、先に制作したファインモールド品の西隊長車を常に参照しつつ、仕上げ状態をなるべく合わせる方針で進めました。リベット等の細部表現に関しては、タミヤ製品では省略されている場合がありますので、見つけ次第、ファインモールド品に合わせてゆくことにしました。

 

 ステップ1です。車体下部を組み立てます。ガイドの指示通りに進めます。

 

 パーツを切り出して準備しました。

 

 特にスプリングのパーツは、破損しないように気をつけました。

 

 スプリングが4個とも組み上がりました。

 

 タミヤのMMシリーズの初期製品の常で、車体底面の表現は完全に省かれています。これを気にするかしないかで、作業量が大きく左右されます。私自身は適当な性格ですので、完成後に見えなくなる範囲については手を抜くか、作らないか、寝ることにしています。

 

 全てのパーツを組み付け終わりました。

 

 底面を上にすると、こんな感じです。

 

 ファインモールド製品で組み立てた西隊長車と比較してみました。上がファインモールド製品、下が今回制作のタミヤ製品です。輪郭や形状は大して変わりませんが、細部の表現はファインモールド製品のほうが精密かつ繊細になされているという印象です。
 ただ、誘導輪の軸位置が、タミヤの方がやや後ろ寄りになります。足回りもタミヤのほうが若干長いのかもしれません。Ⅳ号戦車D型のキットと同じく、タミヤの古い時期の戦車キットはややオーパスケール気味なところがあるように思います。  (続く)

 


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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く32 その1 「八朔祭の大洗です!!」

2019年09月01日 | 大洗巡礼記

 2019年8月25日、今まで一度も見たことがなかった八朔祭を見物すべく、大洗に行きました。2泊3日の行程にて、京都からの鉄道利用でした。3月の海楽フェスタ以来、約5ヵ月ぶりの訪問でした。

 6時半に家を出て京都発の新幹線に乗り、品川駅にて常磐線特急に乗り換えて水戸駅に着いたのが11時過ぎでした。鹿島臨海鉄道の大洗行きの列車は、その10分後の11時12分発でした。

 

 その列車は、御覧のとおり新型車両でした。快適であったのは言うまでもありません。

 

 大洗駅に着きました。とりあえず、バス停に行って町内巡回バスの時刻をチェックしましたが、列車の時刻とかみ合っていない時間帯でしたので、バス利用を諦めました。

 

 さて、どうしたものかと思案しつつ、駅前のカジキのオブジェを見て、こんなの前からあったっけ、と首を傾げました。似たようなのを祝町の宿「とびた荘」の付近で見かけたな、と思い出しました。

 

 こちらのイルカのほうは、以前からお馴染みです。アニメのテレビシリーズにも登場しています。いつだったか、一匹のヒレ部分が破損していましたが、元通りに修復されていました。
 駅前の再開発工事も大詰め段階になっていて、ロータリーや駐車スペースは既に供用がスタートしていました。トイレや駐輪場のエリアはまだ敷石敷設工事が行われていました。

 

 今回の来訪は、大洗の三大祭のひとつとされる八朔祭を見るのが目的でした。これまで大洗に30回以上訪れていますが、この祭礼行事は一度も見物の機会を得ないまま今日に至っています。
 今年は、幸いにも休みに恵まれて3月の海楽フェスタを初めて見に行く事が出来ましたので、出来るならば八朔祭とあんこう祭にも行きたいな、と思っていましたが、なんとか八朔祭にも行けることとなり、現地で上図のポスターを見て、安堵の思いにつつまれたことでした。

 ですが、まずはバスを利用して大洗磯前神社へ、という最初の案がつぶれたので、徒歩で近くの大貫地区から先に回ることにしました。

 

 きらめき通りから大貫商店街に至ると、すぐに巡行行列の一つに出会いました。山車の頂上にからくり人形が見えました。

 

 提灯の座名を見て、これは大洗の山車ではないな、と気付きました。秀華囃子連とあります。大洗の山車列には大洗連と書かれますから、これは他地域からの奉祝参加山車なのだろうな、と思いました。
 山車の先導を務めていた世話人が、山車の小休止に伴って道端で一息ついているところへ挨拶して説明を受け、笠間市からの参加だと教えていただきました。からくり人形の動きが見事ですね、と話したら笑顔になって、得意げに色々解説してくれました。

 おかげで、大洗にある山車は二台であること、八朔祭には笠間市や水戸市からも山車や神輿が参列して神前に彩りを添えていること、他に新設の神輿や巡行列があること、などを知る事が出来ました。今回は事前調査無しのぶっつけ本番で行きましたから、大洗の八朔祭に関する基本情報すら無かったのでした。

 

 ただ、八朔祭そのものはよく知っています。全国的な神事であるからです。
 本来は、旧暦の8月1日つまり八月朔日に催された農耕民の収穫祭の通称で、現在の新暦では8月下旬頃から9月下旬頃までの期間に催されます。この時期に早稲の穂が実るので、その初穂を地主神などに奉納して感謝し、自然災害のないように祈る風習が古くからあり、京都では松尾大社の八朔祭や嵯峨野の六斎念仏などが有名です。

 私自身は奈良県に長く住んでいましたから、八朔祭といえば奈良の各地の古社のそれがいまだに基本的イメージとして思い出されます。本来は各地域の小さな祭事ですから、規模が大きな八朔祭というのは珍しいほうに属します。
 なので、大洗の八朔祭のように、他所からも複数の山車や神輿が参加して盛大になっているケースはあまり聞いたことがありませんでした。加えてガルパン効果でファンや巡礼者の参加も増えているようなので、祭の規模としては相当なものであろう、と思います。

 笠間の山車巡行列を見送った後、上図の梅原屋に行きました。店先に揚げられた祭礼提灯が、風に揺れていました。  (続く)

 


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