良くできた文学作品に共通する特徴は何か。この問いに対するもっとも典型的な答えは「多様な解釈を可能とする」というものだ。
Aとも読めるし、Bというふうにも読める。様々な理解、様々な捉え方ができ、読者それぞれ「自分にとってのこの作品はこういうものだ」という、違ったイメージを抱くことができる――。それが良い文学の条件だ、と。
精神科医の名越康文が『毎日トクしている人の秘密』の中で、ことわざの「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に触れ、「一般的には年をとって成熟することにより、人に頭を下げることを覚える、という意味に取られると思うが、自分の解釈は少し違う。自分の実感としては、年を重ねるごとにいろんな人の世話になることが増えていき、心からありがたいという気持ちで頭を下げるようになった」という意味のことを書いていた。
また、お笑い芸人の千原ジュニアが、同じことわざについて、「偉くなればなるほど周囲に目をつけられるようになるから、狙われないように頭を低くしろ、という意味だと思っていた」と発言していた。
良くできた文学のみならず、良くできたことわざというのもまた、多様な読みを許すのかもしれない。(ことわざだって文学の内だ、と反論される方もおられるかもしれないが)
小生も、ことわざの本来の意味とは違う解釈に挑戦してみたい。
取り上げるのはこれ。「親の言葉と茄子の花には千にひとつの無駄もない」
あまりメジャーではなく、しかもツッコミどころの多いこのことわざ。
まず槍玉に挙がるのは「親の言葉」だろう。「親の言うことなんてムダだらけ。ムダというよりむしろ有害」とか「昔の日本人は立派だったから無駄口を叩く大人はいなかったが、それに比べて現代は…」といった意見が予想される。小生自身も、親の話がムダだらけだというのは納得のいくところである。
では「茄子の花」はどうか。茄子の花に無駄がない、とはつまり、すべて丸々とした実をならす、という意味になるだろうが、実際は「ムダ花」、つまり実をつけることなくポロポロ落ちる花がたくさんあるという。
では、このことわざは「親の言葉」も「茄子の花」も両方間違っている、出来損ないのことわざということになるのだろうか。そう断言して片付けるのは簡単だが、もう少し考えてみたい。
両方とも、本当にムダなのだろうか。
「親の言葉」に関してだが、親からムダなことを言われた子供はどうなるか。「自分は絶対こんなバカげたことを言う大人にはなるまい」と誓うだろう。すると親の言葉は反面教師となっているわけで、その働きがある以上、まったくのムダとは言えない。
ちなみに、昔の日本人は偉かった、式思考法だが、歴史を紐解けば、親が子供を――やむを得ずではなく、積極的な理由で――殺害したり、育児放棄したりといった事例はいくらでも出てくるので、そんな保守親父の繰り言めいた言い分には耳を貸す気にはなれない。
次に、茄子の花も検討してみる。ムダ花というのも、ただ落下したあと消えてなくなるわけではなく、時間をかけて土に還り、新たな養分となるのだから、まったくのムダとは言えない。
つまりどちらも「厳密にはムダとは言えない」ことになるが、そんな弱々しい結論は面白みに欠ける。
思い切って、論理を飛躍させてみよう。
親の言葉も茄子の花も、どちらもムダだらけであるとわかりきった上で、敢えて作られたことわざだとしたら、どうか。意図的に間違った内容のことわざとして生み出されたものだとしたら?
んなアホな、なんでそんな意味のないことするんだ、それこそムダじゃないか、と思われるだろうか。
しかし、あながちそうとも言えない。
世の中には、様々な常識があるが、間違ったことが常識になることがある。誤ったことを人々が盲信し、それに沿って社会を整備し、誰も逆らえないまま明後日に突き進む。気が付いてみると大事なものを失い、自分達も社会もボロボロになって「俺たちゃ何をしてたんだ」と呟く。
規模の大なり小なり、幾度となくくり返されてきた事だ。
それに対する教訓としてあるとしたらどうだろう。
間違った内容を含んだ言葉が、ことわざとして登録される。つまり、事実でないことが常識になる、ということだ。それは「このようにして、世の中は間違いが常識になることがありますよ、気をつけてくださいね」というメッセージを放つだろう。言葉そのものには意味がない。しかし、言葉の表面でなく、裏を読むことによって、立ち上がってくるメッセージ。言葉が、自分自身を否定することによって成立するメッセージ。
このメッセージこそが、このことわざの真の教えなのではないだろうか。
ちなみに、言葉の裏に隠されたメッセージのことをメタ・メッセージというが、これを織り込むことによって、「言葉には表面だけでなく、裏の意味があったりするので、それを読めるようにならねばならない」という教訓をも含んでいることになる。
そう考えると、ただの出来損ないと切って捨てるには惜しい、極めて高度なひねりを加えて作られたことわざだと言えるのではないだろうか。
オススメ関連本・加藤典洋『テクストから遠く離れて』講談社
Aとも読めるし、Bというふうにも読める。様々な理解、様々な捉え方ができ、読者それぞれ「自分にとってのこの作品はこういうものだ」という、違ったイメージを抱くことができる――。それが良い文学の条件だ、と。
精神科医の名越康文が『毎日トクしている人の秘密』の中で、ことわざの「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に触れ、「一般的には年をとって成熟することにより、人に頭を下げることを覚える、という意味に取られると思うが、自分の解釈は少し違う。自分の実感としては、年を重ねるごとにいろんな人の世話になることが増えていき、心からありがたいという気持ちで頭を下げるようになった」という意味のことを書いていた。
また、お笑い芸人の千原ジュニアが、同じことわざについて、「偉くなればなるほど周囲に目をつけられるようになるから、狙われないように頭を低くしろ、という意味だと思っていた」と発言していた。
良くできた文学のみならず、良くできたことわざというのもまた、多様な読みを許すのかもしれない。(ことわざだって文学の内だ、と反論される方もおられるかもしれないが)
小生も、ことわざの本来の意味とは違う解釈に挑戦してみたい。
取り上げるのはこれ。「親の言葉と茄子の花には千にひとつの無駄もない」
あまりメジャーではなく、しかもツッコミどころの多いこのことわざ。
まず槍玉に挙がるのは「親の言葉」だろう。「親の言うことなんてムダだらけ。ムダというよりむしろ有害」とか「昔の日本人は立派だったから無駄口を叩く大人はいなかったが、それに比べて現代は…」といった意見が予想される。小生自身も、親の話がムダだらけだというのは納得のいくところである。
では「茄子の花」はどうか。茄子の花に無駄がない、とはつまり、すべて丸々とした実をならす、という意味になるだろうが、実際は「ムダ花」、つまり実をつけることなくポロポロ落ちる花がたくさんあるという。
では、このことわざは「親の言葉」も「茄子の花」も両方間違っている、出来損ないのことわざということになるのだろうか。そう断言して片付けるのは簡単だが、もう少し考えてみたい。
両方とも、本当にムダなのだろうか。
「親の言葉」に関してだが、親からムダなことを言われた子供はどうなるか。「自分は絶対こんなバカげたことを言う大人にはなるまい」と誓うだろう。すると親の言葉は反面教師となっているわけで、その働きがある以上、まったくのムダとは言えない。
ちなみに、昔の日本人は偉かった、式思考法だが、歴史を紐解けば、親が子供を――やむを得ずではなく、積極的な理由で――殺害したり、育児放棄したりといった事例はいくらでも出てくるので、そんな保守親父の繰り言めいた言い分には耳を貸す気にはなれない。
次に、茄子の花も検討してみる。ムダ花というのも、ただ落下したあと消えてなくなるわけではなく、時間をかけて土に還り、新たな養分となるのだから、まったくのムダとは言えない。
つまりどちらも「厳密にはムダとは言えない」ことになるが、そんな弱々しい結論は面白みに欠ける。
思い切って、論理を飛躍させてみよう。
親の言葉も茄子の花も、どちらもムダだらけであるとわかりきった上で、敢えて作られたことわざだとしたら、どうか。意図的に間違った内容のことわざとして生み出されたものだとしたら?
んなアホな、なんでそんな意味のないことするんだ、それこそムダじゃないか、と思われるだろうか。
しかし、あながちそうとも言えない。
世の中には、様々な常識があるが、間違ったことが常識になることがある。誤ったことを人々が盲信し、それに沿って社会を整備し、誰も逆らえないまま明後日に突き進む。気が付いてみると大事なものを失い、自分達も社会もボロボロになって「俺たちゃ何をしてたんだ」と呟く。
規模の大なり小なり、幾度となくくり返されてきた事だ。
それに対する教訓としてあるとしたらどうだろう。
間違った内容を含んだ言葉が、ことわざとして登録される。つまり、事実でないことが常識になる、ということだ。それは「このようにして、世の中は間違いが常識になることがありますよ、気をつけてくださいね」というメッセージを放つだろう。言葉そのものには意味がない。しかし、言葉の表面でなく、裏を読むことによって、立ち上がってくるメッセージ。言葉が、自分自身を否定することによって成立するメッセージ。
このメッセージこそが、このことわざの真の教えなのではないだろうか。
ちなみに、言葉の裏に隠されたメッセージのことをメタ・メッセージというが、これを織り込むことによって、「言葉には表面だけでなく、裏の意味があったりするので、それを読めるようにならねばならない」という教訓をも含んでいることになる。
そう考えると、ただの出来損ないと切って捨てるには惜しい、極めて高度なひねりを加えて作られたことわざだと言えるのではないだろうか。
オススメ関連本・加藤典洋『テクストから遠く離れて』講談社
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