今日はサクッとしたやつです。


一般的な、スライスしたじゃがいもを揚げたやつじゃなく、すりつぶしたじゃがいもを固めて揚げてます。こっちがほしい気分のときもある。
「筒入りだったのが袋入りに~」とかいうCMやってましたね。僕は筒入りの時代を知りません。ひょっとして、最近まで九州じゃ販売してなかったのでしょうか。
あのね、ちょっと聞いてくださいよ。1年くらい前の話なんですけどね。
ある日の買い物帰り、交差点を通りかかりました。JRの駅近くの交差点で、けっこう人通りがあります。
その交差点の、歩道に設置してある信号機の柱に、80前後のおじいさんが寄りかかって座っていたんです。なんか、不自然な光景に見えました。
休憩しているようでもありますが、普通はわざわざこんな場所で休まない。時間をつぶしているようでも、人を待っているようでもありません。
そこの交差点は、歩車分離信号になってます。車道が全部赤信号になってから、歩道が青になる。だからナナメ横断もできるわけです。
歩行者が青になり、僕は自転車で渡ろうとしました。柱にもたれていたおじいさんは立ち上がり、小刻みに足踏みを始めました。
おじいさんが何をしようとしているのか、よくわからないまま横断歩道を渡り、渡った先でふり返りました。おじいさんは、立ち上がったその場で、足踏みを続けています。やがて信号は赤になり、おじいさんはしゃがみ込んで、再び信号機の柱にもたれかかりました。
事態を呑み込めないまま自宅に向かいました。帰宅途中で、おじいさんは足が悪くて歩けなくなっているのではないか、と気づきました。
普段は、なんとか歩くことができている。でも、たまに具合が悪くなり、足が動かなくなってしまう。
おじいさんはあの交差点で動けなくなり、座って足を休め、信号が青になれば立ち上がって歩き出そうとしていたのではないか。僕が目撃したときも、足を動かそうと試みたものの、とうとう動かず、また座り込んでしまったのではないか。そう推測しました。
たぶんそれが正解だな、と思いながら帰宅しました。そして、おじいさんのことがどんどん心配になってきました。
おじいさんはまだあの交差点にいるのではないか。何度も歩こうと試みては、うまくいかず座り込んで、をくり返しているのではないか。
気になって気になって、仕方ありません。いても立ってもいられない。
家を出て、再び自転車に乗り、交差点へ向かいました。
交差点に戻ると、果たしておじいさんは、まだその場にいました。柱を背に、車道のほうを向いて座っています。
僕はおじいさんに、「大丈夫ね?」と話しかけました。おじいさんは僕の言葉を理解していない様子で、「ん?」と答えました。
僕は、「どうかしたのかな、と思って」と言いました。おじいさんは、「え?」と答えました。なおも僕の言っていることを理解していない様子です。
僕は、「今何しよると?」と尋ねました。おじいさんは、「帰りよるところ」と答えました。
僕は、「歩かれんと?」と尋ねました。おじいさんは、またも質問を理解できず、意味のわからないことをゴニョゴニョ言っていました。
だんだんおじいさんの態度に違和感を覚えてきました。
おじいさんは、こちらの質問に答えてはくれるのですが、ひとことだけしか答えず、会話が続かないのです。
それに、ひとこと答えたら、すぐに僕への注意をなくすのです。こちらが質問したら、横にいる僕の顔を見て返事をしてくれる。でも、それが終わるとすぐに前を向き、僕のことは意識の外に出てしまうのです。そして、あたかも隣には誰もいないような無感情の顔で、ただ前を見つめるのです。僕がすぐ隣にいるのに、それをいっさい知覚できていないような気配なのです。
普通、町中で知らない人にいきなり話しかけられたら、何かしらの関心を持つものです。「誰なんだろう」とか、「なんの用だろう」とか、「何を考えているのだろう」とか、「なんか企んでいるんじゃないか」とか。積極的に興味を持つ場合もあるし、警戒心を抱く場合もある。ですがいずれにせよ、相手に対して「かまえる」ものです。
ですがそのおじいさんは、僕に対して、いっさいかまえなかった。僕に何の関心も起こさず、ただ質問に端的に答えるだけだったのです。
それに、僕はそのとき、あからさまに「あなたのことを助けたいと思ってますよ」という雰囲気をまとって話しかけました。人の様子をある程度察することができるなら、すぐにその雰囲気を読み取れるはずです。
しかし、おじいさんはそれをまったく理解しなかった。僕がどのような意図をもって話しかけたかを理解せず、ひとつの質問にひとことずつ答えるだけだったのです。
町中でいきなり話しかけられた知らない男に、いっさい関心を持たず、相手の雰囲気を察することもできず、質問に端的に答えるだけ。しかも、答えたらすぐに相手に対する注意を失う。いや、そもそも質問に答えている最中ですら、僕をいっさい注意していないのかもしれません。
質問には答えてくれるけど、答えたらすぐに前を向き、僕に対する意識がフッと途切れる。これが何度もくり返されました。
僕はおじいさんの、極端なコミュニケーション能力の欠如に戸惑いました。ですが、戸惑いつつも、とにかく助けてあげねばならないと、行動を起こすことにしました。
僕は、「担いであげようか」と尋ねました。おじいさんは、「え?」と答えました。もう一度「担いであげようか」と尋ねましたが、反応は同じでした。おじいさんは、僕の言葉の意味がわからないどころか、僕が助けてあげようとしていることすら理解できないようでした。
とにかくもう、おじいさんが理解できようができまいが、助けてあげればそれでいいと、行動に移すことにしました。僕がおじいさんをおぶって、家まで連れていってあげればいいのです。
しかしそのとき、僕はちょうど腰を痛めていました。おじいさんは小柄でしたが、それでもおんぶは負担が大きい。腰を悪化させてしまいかねない。
なので、ほかの人を頼ることにしました。人通りの多い交差点なので、頼れる相手はたくさんいます。誰かほかの、それなりにたくましい若い男に、代わりにおんぶしてもらおうと考えたのです。
僕は、ハタチ前後のカップルの、彼氏の方に話しかけました。「あの、お急ぎでなかったら手を貸してほしいんですが」
彼氏さんは、「ちょっと急いでるんで」と答えました。「そうですか、すみません」と言いつつ、「警戒されたか?」と思いました。
路上で、知らない男から突然話しかけられたのです。警戒するのが普通です。
「こりゃ手こずるかもしれんな」と思いつつ、ふとおじいさんのほうを見ると、ちょうど歩道が青になっていて、おじいさんはまた立ち上がっていました。
おじいさんは、また足踏みをしています。するとどうでしょう、おじいさんの足が動き出したのです。
僕との会話が体を活性させたのか。それとも、たまたまそのとき体が調子を取り戻したのか。
それはわかりませんが、とにかくおじいさんは歩き出したのです。ヨロヨロとした足取りながら、横断歩道を渡っています。
僕は念のため、あとをついていきました。しばらくうしろからうかがっていましたが、足取りは弱々しいものの、おじいさんは止まることなく歩み続けていました。もう大丈夫そうに見えたので、尾行をやめ、家に帰りました。
この出来事はこれでおしまいです。おじいさんはケガをすることも、事故に遭うこともありませんでした。おそらく、無事に帰宅したのでしょう。
ですが僕は、考え込まずにはいられませんでした。おじいさんの、異様なほどのコミュニケーション能力の欠如についてです。
思えば、おじいさんは自分から助けを求めようとしなかった。人通りの多い交差点にいたので、その気になれば、助けを求めることは簡単にできたはずです。
おんぶはなかなか頼めないかもしれませんが、肩を貸すくらいなら気軽にOKしてくれる人は多いでしょう。おじいさんが「ちょっと肩貸してくれ」と頼めば、応じてくれる男の人はいくらでもいるでしょう。
なのに、おじいさんは助けを求めようとはしなかった。柱に寄りかかって座り、信号が青になるたびに立ち上がって、自力で歩こうと試み続けたのです。
僕がおじいさんに声をかけるまで、ほかの誰もおじいさんを助けようとしなかった、というのもなかなか異常な話ではありますが、おじいさん自身が助けを求めなかったというのも、かなり不自然なことです。
なぜおじいさんは助けを求めなかったのでしょうか。
思うに、それもコミュニケーション能力の欠如のせいではないでしょうか。
おじいさんは、僕が助けようとして話しかけたということを理解できませんでしたが、それと同様に、自分が助けてもらうべき状況にある、ということも理解できていなかったのではないかと思うのです。
だから自分から助けを求めなかった。助けを求めようとはせず、何度も自力で歩こうと試み続けた。
僕はさらに想像をめぐらせました。おじいさんは、あのときの交差点の場面だけでなく、普段から人に助けを求めようと考えられなかったり、人の善意を理解できなかったりしているのではないか。コミュニケーション能力の極端な欠如ゆえ、人とつながりを持つことができず、孤独な立場に立たされ、そのうえ自分が孤独であることも理解できずにいるのではないかと。
家族なり友達なり、身の回りの世話をしてくれる人や、安否を気にかけてくれる人がいたらいいでしょうけど、そういった人がひとりもおらず、ひとり暮らししていたらどうでしょう。独居老人には、民生委員が見回りに来たりとかしますけど、そういった福祉も必要と感じることができず、すべて断っていたらどうでしょう。
高齢者であれば、あるいは低収入者であれば受けられる行政サービスも、その存在を知らなかったり、自分が享受すべきと思えず、そこからこぼれ落ちてしまっているのではないか。何かしらの助けが必要なほど体が弱っているのに、そのことを理解できず、自力でなんとかしようとし続け、その結果として、さらに体調を悪化させてしまっているのではないか。
もしおじいさんが、救急車を呼ばねばならないような危機的状態になったとしても、「これは救急車を呼ぶべきだ」と思えず、痛みや苦しみに耐え続けてしまうのではないか。悪くすれば、そのまま亡くなってしまうのではないか。
いや、これらはすべて推測にすぎません。おじいさんには、身の回りの心配をしてくれる家族や友達がいるのかもしれない。そうじゃなくても、いざというときには自分から助けを求めることができるのかもしれない。だとしたら、僕の考えはすべて余計なお世話です。
ですが、推測が当たっていないとも言い切れません。短時間接しただけでしたが、その印象からは、おじいさんが普段誰ともつながっておらず、自分から助けを求める声を上げることもできない人である可能性は、高いと思われました。ここでは、この推測が正しいものと仮定して、以下の議論に進みます。
僕は、「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉が嫌いです。なぜ嫌いなのか。今まではその理由を、きれいごとに聞こえるからだと思っていました。
しかし今回の件を機に、そんな感情論にとどまらない、もっと根深い問題が潜んでいるということに気づきました。
「誰でも大切に思ってくれる相手がいる」というのは、事実ではありません。端的に間違っています。悲しいことですが、誰からもなんとも思われていない、孤独な人は存在するのです。
しかし、そんな人であっても、幸せに暮らしていける世の中でなくてはならない。できれば大切に思ってくれる誰かを作ったほうがいいんでしょうけど、どうしたってそれが難しい人もいるのです。だから、孤独であるのが動かしがたい前提としたうえで、それでも幸せに暮らしていけるにはどうしたらいいか、を考えないといけない。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉は、それをできなくさせてしまうのです。だって、大切に思ってくれる人がいるのなら、その人が絶対に幸せにしてくれるはずだから、周りは何もしなくていい、という判断になるからです。
誰からも思われていない人がいて、孤独に暮らしていたとしても、その人を助けてあげようと考える人はいなくなる。助けるべきは自分じゃなく、大切に思っている誰かだ、ということになるからです。そんな人がいなくても、この言葉のせいで、いるかのように錯覚してしまう。
かくして、誰からも思われていない人の孤独は見過ごされ、その人を幸せにしようと働きかける人は現れないままになってしまうのです。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉には、現に存在する孤独な人から目を逸らし、その不幸を放置してしまう効果があるのです。
悲しいことですが、どうしたって、誰からも思われていない人というのは存在するのです。それを認めたうえで、「じゃあそんな人でも幸せに生きていけるにはどうしたらいいか」を考えないといけない。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などと言っていたら、それができなくなってしまうのです。
誰からも思われていないような人であっても幸せに生きていけるには、どうしたらいいでしょうか。そこをちゃんと考えないといけません。
福祉や行政の網の目をもっと細かくし、そこからこぼれ落ちる人が出てこないようにすべき、というのもひとつです。弱っている人、苦しい立場に立たされているであろう人を見逃さず、積極的にかかわりを持ち、困ったときに協力し合えるつながりを作る、というのもひとつでしょう。ほかにも、もっといろいろあるはずです。
大切なのは、人任せにしないこと。「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などと言って、その誰かが自分の代わりに助けてあげるだろうと決めつけたりせず、自分から助けに動くこと。
思えば、あの日の交差点で、僕以外の誰もおじいさんを助けようとはしませんでした。単に気づかなかった、という人もいるでしょうけど、気づいていたのにたいしたことないだろうと決めつけてたり、自分以外の誰かがなんとかしてくれるだろうと、人任せにしてしまっていた人だっていたはずなんです。
そんな積極性のなさ、人助けの消極的態度が、助けが必要な人から目を逸らしてしまう。見て見ぬフリをしてしまうのです。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などというきれいごとに目を曇らされることなく、正しく現実を直視し、誰からも思われていない人にも救いの手を差し伸べられるようになれるか。みんながそんな心がけを持つことができるか。そんな社会を設計できるか。
そんなことを考えました。


一般的な、スライスしたじゃがいもを揚げたやつじゃなく、すりつぶしたじゃがいもを固めて揚げてます。こっちがほしい気分のときもある。
「筒入りだったのが袋入りに~」とかいうCMやってましたね。僕は筒入りの時代を知りません。ひょっとして、最近まで九州じゃ販売してなかったのでしょうか。
あのね、ちょっと聞いてくださいよ。1年くらい前の話なんですけどね。
ある日の買い物帰り、交差点を通りかかりました。JRの駅近くの交差点で、けっこう人通りがあります。
その交差点の、歩道に設置してある信号機の柱に、80前後のおじいさんが寄りかかって座っていたんです。なんか、不自然な光景に見えました。
休憩しているようでもありますが、普通はわざわざこんな場所で休まない。時間をつぶしているようでも、人を待っているようでもありません。
そこの交差点は、歩車分離信号になってます。車道が全部赤信号になってから、歩道が青になる。だからナナメ横断もできるわけです。
歩行者が青になり、僕は自転車で渡ろうとしました。柱にもたれていたおじいさんは立ち上がり、小刻みに足踏みを始めました。
おじいさんが何をしようとしているのか、よくわからないまま横断歩道を渡り、渡った先でふり返りました。おじいさんは、立ち上がったその場で、足踏みを続けています。やがて信号は赤になり、おじいさんはしゃがみ込んで、再び信号機の柱にもたれかかりました。
事態を呑み込めないまま自宅に向かいました。帰宅途中で、おじいさんは足が悪くて歩けなくなっているのではないか、と気づきました。
普段は、なんとか歩くことができている。でも、たまに具合が悪くなり、足が動かなくなってしまう。
おじいさんはあの交差点で動けなくなり、座って足を休め、信号が青になれば立ち上がって歩き出そうとしていたのではないか。僕が目撃したときも、足を動かそうと試みたものの、とうとう動かず、また座り込んでしまったのではないか。そう推測しました。
たぶんそれが正解だな、と思いながら帰宅しました。そして、おじいさんのことがどんどん心配になってきました。
おじいさんはまだあの交差点にいるのではないか。何度も歩こうと試みては、うまくいかず座り込んで、をくり返しているのではないか。
気になって気になって、仕方ありません。いても立ってもいられない。
家を出て、再び自転車に乗り、交差点へ向かいました。
交差点に戻ると、果たしておじいさんは、まだその場にいました。柱を背に、車道のほうを向いて座っています。
僕はおじいさんに、「大丈夫ね?」と話しかけました。おじいさんは僕の言葉を理解していない様子で、「ん?」と答えました。
僕は、「どうかしたのかな、と思って」と言いました。おじいさんは、「え?」と答えました。なおも僕の言っていることを理解していない様子です。
僕は、「今何しよると?」と尋ねました。おじいさんは、「帰りよるところ」と答えました。
僕は、「歩かれんと?」と尋ねました。おじいさんは、またも質問を理解できず、意味のわからないことをゴニョゴニョ言っていました。
だんだんおじいさんの態度に違和感を覚えてきました。
おじいさんは、こちらの質問に答えてはくれるのですが、ひとことだけしか答えず、会話が続かないのです。
それに、ひとこと答えたら、すぐに僕への注意をなくすのです。こちらが質問したら、横にいる僕の顔を見て返事をしてくれる。でも、それが終わるとすぐに前を向き、僕のことは意識の外に出てしまうのです。そして、あたかも隣には誰もいないような無感情の顔で、ただ前を見つめるのです。僕がすぐ隣にいるのに、それをいっさい知覚できていないような気配なのです。
普通、町中で知らない人にいきなり話しかけられたら、何かしらの関心を持つものです。「誰なんだろう」とか、「なんの用だろう」とか、「何を考えているのだろう」とか、「なんか企んでいるんじゃないか」とか。積極的に興味を持つ場合もあるし、警戒心を抱く場合もある。ですがいずれにせよ、相手に対して「かまえる」ものです。
ですがそのおじいさんは、僕に対して、いっさいかまえなかった。僕に何の関心も起こさず、ただ質問に端的に答えるだけだったのです。
それに、僕はそのとき、あからさまに「あなたのことを助けたいと思ってますよ」という雰囲気をまとって話しかけました。人の様子をある程度察することができるなら、すぐにその雰囲気を読み取れるはずです。
しかし、おじいさんはそれをまったく理解しなかった。僕がどのような意図をもって話しかけたかを理解せず、ひとつの質問にひとことずつ答えるだけだったのです。
町中でいきなり話しかけられた知らない男に、いっさい関心を持たず、相手の雰囲気を察することもできず、質問に端的に答えるだけ。しかも、答えたらすぐに相手に対する注意を失う。いや、そもそも質問に答えている最中ですら、僕をいっさい注意していないのかもしれません。
質問には答えてくれるけど、答えたらすぐに前を向き、僕に対する意識がフッと途切れる。これが何度もくり返されました。
僕はおじいさんの、極端なコミュニケーション能力の欠如に戸惑いました。ですが、戸惑いつつも、とにかく助けてあげねばならないと、行動を起こすことにしました。
僕は、「担いであげようか」と尋ねました。おじいさんは、「え?」と答えました。もう一度「担いであげようか」と尋ねましたが、反応は同じでした。おじいさんは、僕の言葉の意味がわからないどころか、僕が助けてあげようとしていることすら理解できないようでした。
とにかくもう、おじいさんが理解できようができまいが、助けてあげればそれでいいと、行動に移すことにしました。僕がおじいさんをおぶって、家まで連れていってあげればいいのです。
しかしそのとき、僕はちょうど腰を痛めていました。おじいさんは小柄でしたが、それでもおんぶは負担が大きい。腰を悪化させてしまいかねない。
なので、ほかの人を頼ることにしました。人通りの多い交差点なので、頼れる相手はたくさんいます。誰かほかの、それなりにたくましい若い男に、代わりにおんぶしてもらおうと考えたのです。
僕は、ハタチ前後のカップルの、彼氏の方に話しかけました。「あの、お急ぎでなかったら手を貸してほしいんですが」
彼氏さんは、「ちょっと急いでるんで」と答えました。「そうですか、すみません」と言いつつ、「警戒されたか?」と思いました。
路上で、知らない男から突然話しかけられたのです。警戒するのが普通です。
「こりゃ手こずるかもしれんな」と思いつつ、ふとおじいさんのほうを見ると、ちょうど歩道が青になっていて、おじいさんはまた立ち上がっていました。
おじいさんは、また足踏みをしています。するとどうでしょう、おじいさんの足が動き出したのです。
僕との会話が体を活性させたのか。それとも、たまたまそのとき体が調子を取り戻したのか。
それはわかりませんが、とにかくおじいさんは歩き出したのです。ヨロヨロとした足取りながら、横断歩道を渡っています。
僕は念のため、あとをついていきました。しばらくうしろからうかがっていましたが、足取りは弱々しいものの、おじいさんは止まることなく歩み続けていました。もう大丈夫そうに見えたので、尾行をやめ、家に帰りました。
この出来事はこれでおしまいです。おじいさんはケガをすることも、事故に遭うこともありませんでした。おそらく、無事に帰宅したのでしょう。
ですが僕は、考え込まずにはいられませんでした。おじいさんの、異様なほどのコミュニケーション能力の欠如についてです。
思えば、おじいさんは自分から助けを求めようとしなかった。人通りの多い交差点にいたので、その気になれば、助けを求めることは簡単にできたはずです。
おんぶはなかなか頼めないかもしれませんが、肩を貸すくらいなら気軽にOKしてくれる人は多いでしょう。おじいさんが「ちょっと肩貸してくれ」と頼めば、応じてくれる男の人はいくらでもいるでしょう。
なのに、おじいさんは助けを求めようとはしなかった。柱に寄りかかって座り、信号が青になるたびに立ち上がって、自力で歩こうと試み続けたのです。
僕がおじいさんに声をかけるまで、ほかの誰もおじいさんを助けようとしなかった、というのもなかなか異常な話ではありますが、おじいさん自身が助けを求めなかったというのも、かなり不自然なことです。
なぜおじいさんは助けを求めなかったのでしょうか。
思うに、それもコミュニケーション能力の欠如のせいではないでしょうか。
おじいさんは、僕が助けようとして話しかけたということを理解できませんでしたが、それと同様に、自分が助けてもらうべき状況にある、ということも理解できていなかったのではないかと思うのです。
だから自分から助けを求めなかった。助けを求めようとはせず、何度も自力で歩こうと試み続けた。
僕はさらに想像をめぐらせました。おじいさんは、あのときの交差点の場面だけでなく、普段から人に助けを求めようと考えられなかったり、人の善意を理解できなかったりしているのではないか。コミュニケーション能力の極端な欠如ゆえ、人とつながりを持つことができず、孤独な立場に立たされ、そのうえ自分が孤独であることも理解できずにいるのではないかと。
家族なり友達なり、身の回りの世話をしてくれる人や、安否を気にかけてくれる人がいたらいいでしょうけど、そういった人がひとりもおらず、ひとり暮らししていたらどうでしょう。独居老人には、民生委員が見回りに来たりとかしますけど、そういった福祉も必要と感じることができず、すべて断っていたらどうでしょう。
高齢者であれば、あるいは低収入者であれば受けられる行政サービスも、その存在を知らなかったり、自分が享受すべきと思えず、そこからこぼれ落ちてしまっているのではないか。何かしらの助けが必要なほど体が弱っているのに、そのことを理解できず、自力でなんとかしようとし続け、その結果として、さらに体調を悪化させてしまっているのではないか。
もしおじいさんが、救急車を呼ばねばならないような危機的状態になったとしても、「これは救急車を呼ぶべきだ」と思えず、痛みや苦しみに耐え続けてしまうのではないか。悪くすれば、そのまま亡くなってしまうのではないか。
いや、これらはすべて推測にすぎません。おじいさんには、身の回りの心配をしてくれる家族や友達がいるのかもしれない。そうじゃなくても、いざというときには自分から助けを求めることができるのかもしれない。だとしたら、僕の考えはすべて余計なお世話です。
ですが、推測が当たっていないとも言い切れません。短時間接しただけでしたが、その印象からは、おじいさんが普段誰ともつながっておらず、自分から助けを求める声を上げることもできない人である可能性は、高いと思われました。ここでは、この推測が正しいものと仮定して、以下の議論に進みます。
僕は、「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉が嫌いです。なぜ嫌いなのか。今まではその理由を、きれいごとに聞こえるからだと思っていました。
しかし今回の件を機に、そんな感情論にとどまらない、もっと根深い問題が潜んでいるということに気づきました。
「誰でも大切に思ってくれる相手がいる」というのは、事実ではありません。端的に間違っています。悲しいことですが、誰からもなんとも思われていない、孤独な人は存在するのです。
しかし、そんな人であっても、幸せに暮らしていける世の中でなくてはならない。できれば大切に思ってくれる誰かを作ったほうがいいんでしょうけど、どうしたってそれが難しい人もいるのです。だから、孤独であるのが動かしがたい前提としたうえで、それでも幸せに暮らしていけるにはどうしたらいいか、を考えないといけない。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉は、それをできなくさせてしまうのです。だって、大切に思ってくれる人がいるのなら、その人が絶対に幸せにしてくれるはずだから、周りは何もしなくていい、という判断になるからです。
誰からも思われていない人がいて、孤独に暮らしていたとしても、その人を助けてあげようと考える人はいなくなる。助けるべきは自分じゃなく、大切に思っている誰かだ、ということになるからです。そんな人がいなくても、この言葉のせいで、いるかのように錯覚してしまう。
かくして、誰からも思われていない人の孤独は見過ごされ、その人を幸せにしようと働きかける人は現れないままになってしまうのです。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」という言葉には、現に存在する孤独な人から目を逸らし、その不幸を放置してしまう効果があるのです。
悲しいことですが、どうしたって、誰からも思われていない人というのは存在するのです。それを認めたうえで、「じゃあそんな人でも幸せに生きていけるにはどうしたらいいか」を考えないといけない。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などと言っていたら、それができなくなってしまうのです。
誰からも思われていないような人であっても幸せに生きていけるには、どうしたらいいでしょうか。そこをちゃんと考えないといけません。
福祉や行政の網の目をもっと細かくし、そこからこぼれ落ちる人が出てこないようにすべき、というのもひとつです。弱っている人、苦しい立場に立たされているであろう人を見逃さず、積極的にかかわりを持ち、困ったときに協力し合えるつながりを作る、というのもひとつでしょう。ほかにも、もっといろいろあるはずです。
大切なのは、人任せにしないこと。「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などと言って、その誰かが自分の代わりに助けてあげるだろうと決めつけたりせず、自分から助けに動くこと。
思えば、あの日の交差点で、僕以外の誰もおじいさんを助けようとはしませんでした。単に気づかなかった、という人もいるでしょうけど、気づいていたのにたいしたことないだろうと決めつけてたり、自分以外の誰かがなんとかしてくれるだろうと、人任せにしてしまっていた人だっていたはずなんです。
そんな積極性のなさ、人助けの消極的態度が、助けが必要な人から目を逸らしてしまう。見て見ぬフリをしてしまうのです。
「人は誰でも大切に思ってくれる相手がいる」などというきれいごとに目を曇らされることなく、正しく現実を直視し、誰からも思われていない人にも救いの手を差し伸べられるようになれるか。みんながそんな心がけを持つことができるか。そんな社会を設計できるか。
そんなことを考えました。
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