糸井重里対談集『話せばわかるか』を読んでいたら、次の箇所に出くわした。対談相手は経済人類学者の栗本慎一郎、話題はセックスについてである。
糸井 全く自然の状態にほっておくと、人間っていうのは、どのくらいしたいものなんでしょうね。
(中略)
栗本 精神的な満足度がすごく大きいんじゃないですかね。普通、週3回だといわれると週2回だったものがもう1回がんばって3回にもちこむとか……。そういう情報がなかったらかなり少ないんじゃないかと思いますヨ。
糸井 週2回なんていうのは、メチャメチャ多いんじゃないかな。
栗本 未開社会なんかじゃ、そんなに多くありませんね。
……え、そうなの?
逆だと思っていた。
原始社会は娯楽が少ないので、楽しみといったら食うこととヤルことくらい。電気がないので夜が長く、日が暮れたらその行為に及ぶ……。ということだと思っていた。
しかし栗本は反対の主張をしている。この栗本の説が正しいのかどうか、小生にはよくわからない。わからないが、他の事がわかった。
現代日本を生きる我々が享受しているのは、純粋な「行為としてのセックス」よりも、「情報としてのセックス」の方が割合が高い、という事が。
メディアが高度に発展した社会においては、セックスに関する情報もいたる所で目にすることができる。その場では、より過激で、より過剰な話が選択的に取り交わされる。ごく普通の、ありふれた性体験は退屈なので、取り上げられることはない(逆に、セックスレスや不能などの話は、ままある)。
そのような情報に日夜接していると、そういう過剰な性生活が普通だと思い込む人が出てくる。自分でもそれを実践しようとする人もいるだろう。すると、過剰な性生活を送る人の数が増え、その中からさらに過激な性体験がメディアに紹介される……。
といったふうに、メディアが性活動に拍車をかけている、という面があるのではないか。もとより性衝動というのは、肉体の自然な欲求として沸き起こるもののみならず、情報に媒介されることにより掻き立てられるものでもある(まったくその気はなかったのに、美女を見たことで火が付いた、といったように)。
おそらく栗本の仮説は、そのような高津情報化社会の側面を要素として含んでいるのだろう。
猥談から離れるが、小生はチョコレートやスナック菓子を食べる時、そのパッケージを眺めながら食べる。パッケージの写真やイラスト、原材料名、「○○産の○○を使って○○に焼き上げました…」的な商品説明文。なんか、それらを見ながら食べたほうが美味しく感じる気がしていたのだが、要するにそれは、視覚情報、文字情報も含めて味わっていた、という事だったのだ。
同じように、音楽を聴く時も、CDのジャケットを観ながら聴く。これも、ジャケットの情報と合わせて聴いていたわけだ。
味は味覚だけで成立するわけではなく、音も聴覚だけでは成立しない(そういえば、目を瞑って食べると、味がほとんど分からなくなるらしい)。
もちろん他の感覚にも同じことが言えるだろう。
情報によって感覚は肥大している。感覚の前に、まず情報ありき、ということだろうか。
オススメ関連本・真木悠介『自我の起源――愛とエゴイズムの動物社会学』岩波現代文庫
糸井 全く自然の状態にほっておくと、人間っていうのは、どのくらいしたいものなんでしょうね。
(中略)
栗本 精神的な満足度がすごく大きいんじゃないですかね。普通、週3回だといわれると週2回だったものがもう1回がんばって3回にもちこむとか……。そういう情報がなかったらかなり少ないんじゃないかと思いますヨ。
糸井 週2回なんていうのは、メチャメチャ多いんじゃないかな。
栗本 未開社会なんかじゃ、そんなに多くありませんね。
……え、そうなの?
逆だと思っていた。
原始社会は娯楽が少ないので、楽しみといったら食うこととヤルことくらい。電気がないので夜が長く、日が暮れたらその行為に及ぶ……。ということだと思っていた。
しかし栗本は反対の主張をしている。この栗本の説が正しいのかどうか、小生にはよくわからない。わからないが、他の事がわかった。
現代日本を生きる我々が享受しているのは、純粋な「行為としてのセックス」よりも、「情報としてのセックス」の方が割合が高い、という事が。
メディアが高度に発展した社会においては、セックスに関する情報もいたる所で目にすることができる。その場では、より過激で、より過剰な話が選択的に取り交わされる。ごく普通の、ありふれた性体験は退屈なので、取り上げられることはない(逆に、セックスレスや不能などの話は、ままある)。
そのような情報に日夜接していると、そういう過剰な性生活が普通だと思い込む人が出てくる。自分でもそれを実践しようとする人もいるだろう。すると、過剰な性生活を送る人の数が増え、その中からさらに過激な性体験がメディアに紹介される……。
といったふうに、メディアが性活動に拍車をかけている、という面があるのではないか。もとより性衝動というのは、肉体の自然な欲求として沸き起こるもののみならず、情報に媒介されることにより掻き立てられるものでもある(まったくその気はなかったのに、美女を見たことで火が付いた、といったように)。
おそらく栗本の仮説は、そのような高津情報化社会の側面を要素として含んでいるのだろう。
猥談から離れるが、小生はチョコレートやスナック菓子を食べる時、そのパッケージを眺めながら食べる。パッケージの写真やイラスト、原材料名、「○○産の○○を使って○○に焼き上げました…」的な商品説明文。なんか、それらを見ながら食べたほうが美味しく感じる気がしていたのだが、要するにそれは、視覚情報、文字情報も含めて味わっていた、という事だったのだ。
同じように、音楽を聴く時も、CDのジャケットを観ながら聴く。これも、ジャケットの情報と合わせて聴いていたわけだ。
味は味覚だけで成立するわけではなく、音も聴覚だけでは成立しない(そういえば、目を瞑って食べると、味がほとんど分からなくなるらしい)。
もちろん他の感覚にも同じことが言えるだろう。
情報によって感覚は肥大している。感覚の前に、まず情報ありき、ということだろうか。
オススメ関連本・真木悠介『自我の起源――愛とエゴイズムの動物社会学』岩波現代文庫
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