徳丸無明のブログ

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政治家と国民、どちらが先か・後編

2016-01-12 19:59:15 | 雑文
(前編からの続き)

「今の政治家にはろくなのがいない」とは、何十年も前、ひょっとしたら何百年も前から言われてきたことで、それはまあ確かにその通りなのかもしれないけど、かといって、その政治家を監視する立場にある国民が、一定の批評力を有しているかと言えば、甚だ疑問に思わざるを得ないのである。
卵とニワトリは、どちらが先なのだろうか。
政治家に能力が失くなったから、国民の批評力が低下したのか。それとも、国民が堕落したから、政治家が研鑽されなくなったのか。
小生にはよくわからない。
ひょっとしたら、卵とニワトリは、同時に誕生したのかもしれないし、前後関係を明らかにすることに、意味なんかないのかもしれない。
社会問題は、いかに議論されようとも、最終的には「政治家の責任」に帰着しがちだ。「なんだかんだ言っても、結局悪いのは政治だ。この世の有り様は皆、政治家に責任がある」そう結論づけて、話を終わらせる。
悪いのは政治家なんだから、国民の側に努力義務はない。
「お前らの問題点を指摘しといてやったんだから、あとはちゃんとやっとけよ」
ってわけだ。
あとはもう、思い通りに政治が動かなくても、世の中が望ましい方に向かわなくても、国民は何ら自責の念に囚われることはない。悪いのはみんな政治家なんだから。
政治家に責任をすべて丸投げし、その帰趨による罪を背負わせ、国民は、安楽な位置を得る。
それは、一切責任を問われない立ち位置。そして、一方的に政治家を非難できる立ち位置。
そりゃまあラクだし、心理的には気持ちいいだろう。でも、社会的には良きものをもたらすだろうか。
あるいは、こんな指摘もある。
今の政治家は、議会の答弁で、まともに応答しようとしない。相手の質問をことごとくはぐらかし、論点からズレた答えを返すか、あるいは、無内容な文言を並べ立てるばかりだ、と。
これもまた、疑いようのない事実ではあるのだが、しかし、国民の側が、たったひとつの失言だけをもって「辞任しろ」と迫る習性を有しているとき、無難な発言を行いたい、と考えてしまうのは、自然なことではないかとも思うのである。
とにかく揚げ足を取られないこと。差別的なニュアンスを、一切含まないこと。牽強付会な解釈を許さない、玉虫色の言葉であること。
一にも二にも、そのような発言が選択されるようになるのは、避けられないのではないか。
それから、政治家の水準は、国民の政治的成熟度の反映である、とも言われる。
「ダメな奴だらけだ」と批判を行う国民が、仮に政治家に取って代わったとして、批判された当の政治家よりも優れた祭り事を実現できるか、と言えば、そうはならない、ということ。
多分それも、間違ってないと思う。
これまでくだくだ書いてきたことをまとめると、盲目的に政治家批判を行っても、政治は良くならない、ということになる。
「今の社会が悪いのは、ろくな政治家がいないせいだ」という主張は、ずっと前からなされている。しかし、その指摘によって、政治は改善されたか。むしろ、たったひとつの失言で「辞任しろ」と迫る、近視眼的批判を繰り返してきた結果として、無内容な発言しか行わない政治家を増やしてしまっただけではないのか。
ただ批判するばかりでは何も変わらないのなら、まず自分が変わってみてはどうだろうか。
これはもちろん、批判をするなということではない。まともな批判を行うための作法を身につけるべきではないか、ということだ。
軽々しく辞任要求をしないこと。ワイドショー的視点で政治を眺めないこと。難しくてつまらなくても、重要性が高い論件に、きちんと目を向けること。政治家批判を、劣等感やルサンチマンを回復するための手段にしないこと。
そして、それらを通じて、政治批判の質を高めること。
そうすれば、政治家も正しく研ぎ澄まされ、適切に淘汰されるようになるだろう。
相手が変わらないのなら、まず自分から。
それをもって、はじめの一歩としてみてはどうだろうか。
少なくとも、鬱憤晴らしの政治批判を延々繰り返すよりは建設的だと思うのだが。


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政治家と国民、どちらが先か・前編

2016-01-11 19:02:17 | 雑文
内閣ごとの、辞任した大臣数の比較、というのを見たことがある。
組閣前に、いわゆる“身体検査”が不足していたために、閣僚の触法行為が発覚したり、物議を醸す発言を行ったために責任を問われ、辞任に追い込まれる事例が、一時期頻発したためだ。
内閣発足後、最速で辞任したのは誰か、という話題も、テレビで出ていた。
これらは、いかに政治家が劣化しているか、の指標であるらしい。(最近では政治家の方でも警戒するようになったのか、あまり聞かなくなった)
政治家にろくな人材がいない、とは、昔からずっと言われていることで、それはもはや疑う余地のない国民的常識とされている。
だが、今に時代にこんな主張をすると、訝しがられるかもしれないが、小生は、結構政治家に同情的なのである。
違法行為においては、その責を問われるのは当然だと思う。言及したいのは、失言問題に関してだ。
政治家が、差別的発言、自らの立場を軽んじる発言、国民感情を逆撫でする発言を行う。すると、間髪入れずに「辞任すべきだ」という声が上がる。
「こんな発言をする人物は、不適格だ」と。
しかし、政治家が問われるべきポイントは、ひとつひとつの発言に留まらない。
これまでどのような活動をしてきたか、未来に対し、どのような展望を抱いているか、思想信条は何か、人柄は信頼できるか、政界全体、あるいは政党の中で、どのような位置にいるのか、等々。吟味すべき点は、多岐に渡る。進退の判断は、それら全てをひっくるめて検討すべきだろう。
しかし、昨今の失言問題では、それら諸々の要素を一切無視し、たったひとつの発言だけをもって「不適格だから辞めろ」と言い募る。
これはちょっとおかしいのではないだろうか。
ひとつの失言というのは、枝葉末節に過ぎない。これまでどんな活動をし、何を成し遂げてきたか、如何な主義主張を掲げ、どんな政策を提言してきたか…。政治家を「木」に喩えると、それらが幹や根っ子に当たる。重要なのはそちらの方であって、失言は、「樹木全体」のごく一部である。部分が全体を表している可能性もゼロではないのだが、必ずしも部分を見れば全体がわかるというものではない。
「幹」や「根っ子」、あるいは「第一、第二の枝」を見ずして、末節のただ一箇所を捕まえて、そこだけで政治家の全体を理解したつもりになって、辞任を迫る。
なぜこのような言動をとるのか。
一つは、わかり易くて面白いからだろう。
政治というのは、そもそもが、わかりにくくてつまらないものだ。特に、世の中の仕組みが複雑化した現代において、「これしかない」という、明快な政治的正解などありえない。〇か×か、白か黒か、ゼロか百かといった、単純な二元論では対処しえず、あちらもこちらも同時に立てること、清濁併せ呑むことが求められる。
そんな政治を把握するには、国民にもそれなりの知的負荷が不可欠だ。日々政治情報を収集して体系づけを行い、それに基づいて政治家や政策の適否を判断せねばならないだろう。
でも、そんなめんどくさいことをしたい人は、あまりいない。だから、話を単純化したがる。
「面白味はないけど重要性は高い」事柄からは目を背け、「面白いけど、それだけで政治家の全てがわかるわけではない」失言に飛びつく。
このような国民の態度が、今や常識と化したのはなぜなのか。ワイドショーが、芸能人を論じる手法で、政治家も批評するようになったからだ、という指摘がある。確かに、それも一理あるだろう。
もう一つ小生が思うのは、とにかく高い地位にある人物を引きずり降ろしたい、という願望があるせいではないか、ということ。
マスコミの定番アンケートで、「今の政治に求めるものは何ですか」というのがある。
これに対する答えは、ここ最近はずっと「経済政策」が一番になっている。そのあとに続くのが、年金、介護、子育て政策になるだろう。
しかし、語られざる願望が存在するのである。
それは、「自分たち有権者の慰みものになる」こと。
けして誰も口にすることはない。あるいは、無意識の領域に属する願望なので、自分にそれがあるとは認識できないのかもしれないが、それこそが国民の本音なのである。
政治家が失言を行う。するとマスコミがすぐさま取り上げ、無神経さ・非常識さ・傲慢さを強調した報道を流す。国民もまたすぐに反応し、マスコミと声を合わせて「辞任しろ」と詰め寄る。結果、当該政治家は辞任に至る。
「自分よりも社会的地位の高い人間が、自分よりも豊かな暮らしをしている人間が、自分よりも既得権益を享受している人間が、自分よりもチヤホヤされている人間が、その座から引きずり降ろされた。ざまあみろ」
国民は、そんな形で満足を得る。
本当に経済を最優先すべきと考えているなら、軽々しく辞任を求めることなどできないはずである。
辞任するとなれば、当然代わりの誰かをポストに就けねばならないが、それに伴い一定の手続きが必要となり、様々な人の労力と時間、それらにまつわるお金がかかる。それに、その手続きの間、政治の流れは停止し、本来ならばとっくに片付いているはずの事柄が、おあずけにされてしまう。
また、代わりとなる人物が、必ずしも辞任した者よりも優れているとは限らない。能力の劣る者が後釜についた場合、長い目で見れば、その部門が被る損害は、辞任がなされなかった場合よりも大きくなるかもしれないのだ。
だから、「辞任した場合の利益と不利益」と「辞任しなかった場合の利益と不利益」を天秤にかけて、辞任が本当に理に適っているかどうかを勘案しなくてはならない。
だが、国民はそれをしていない。
ほとんど条件反射のように、感情のみで「辞任しろ」と言う。
このことは、取りも直さず、政治に求めているものが、本当は経済政策ではなく、むしろ、経済をないがしろにしてでも手に入れたいものがある、ということではないだろうか。
小生が、政治家に対して同情的だというのは、以上の理由による。

(後編に続く)


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