猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

社会の統合 皇室頼みに危うさ、原武史

2019-05-01 16:31:05 | 天皇制を考える


きょう、5月1日の朝日新聞は、退位する天皇に感謝し、即位する天皇を祝う記事ばかりだ。表現の自由、出版の自由があるから、そういう記事があってもよい。しかし、天皇の代替わり儀式や象徴天皇制に疑問をもつ記事もあってしかるべきだ。

数少ない、警告の記事が、原武史へのインタビュー記事、『〈考論〉社会の統合 皇室頼みに危うさ』である。小さな囲み記事だから、見落とさないように願いたい。

論旨は、次のようになる。
「代替わりにさいし,社会は「奉祝」一色に近いムードになっている」
が、
「本来政治が果たすべきその役割が,もはや天皇と皇后にしか期待できなくなっているようにもみえる。そうであれば,ある意味では,昭和初期に武装蜂起した青年将校が抱いた理想に近い。民主主義にとってはきわめて危うい状況なのではないか。」

彼は、私と同じく、この大騒ぎに、ファシズムの訪れを予感しているのだ。

原武史は、この後で、次のなぞかけをする。
「令和時代の皇室で鍵を握るのは雅子皇后だと考える。」

彼が「雅子皇后」の今後に期待しているように読めるが、そうだとすると、「皇后に期待」への批判と整合性がとれない。

私は、「雅子」に、現憲法の象徴天皇制のキズをみる。彼女は、英語、ドイツ語、フランス語が話せ、外交官として働いた経験を持つキャリアウーマンだ。ところが、日本の皇室も宮内庁も、彼女を「子どもを産む道具」としか見ない。早く生めと不妊治療をする。
ようやく生まれたら、女の子だった。彼女は「生まれてきてありがとう」と自分の赤ちゃんに言う。しかし、まわりは、それを許さない。頭がおかしくなっているとして彼女を人前にださない。

世襲制の象徴は、人間としての敬意も人権も否定される。

国民統合の象徴は、生きた天皇や皇后の代わりに、AIで「おことば」を話す泥人形で、十分でないか。

退位と即位の大騒ぎはファシズムの前触れ

2019-05-01 14:13:22 | 天皇制を考える


テレビを見ると、天皇の退位、即位で、4月30日から5月1日にかけ、日本がお祭り騒ぎになっている。観光地は、花火や神輿や阿波踊りを企画した。スーパやデパートは、お祝いムードで売り上げを伸ばすことに必死だ。

若者はお祭り騒ぎにのせられて、大阪の道頓堀では海水パンツ姿で泥だらけの川に飛び込み、東京では渋谷交差点で酔っぱらってカウントダウンしていた。
若者は、天皇を祝えば、道路での大騒ぎが許される、と知っているのだ。可哀そうに、彼らは、これまで抑圧され、生を楽しむことが少なかったのだ。

しかし、これはファシズムへの前触れだ。騒ぐべきときに騒がず、権力が誘導する方向に騒ぐ。これは、戦前のイタリア型ファシズムと日本型ファシズムの中間だ。

ムッソリーニは、自信を失った若者に生きがいを与えようとした田舎の教育者であった。彼は、若者に生きる目標を与えようとして、現代にローマ帝国の栄光の再現を目指した。特権階級は、ムッソリーニの指導能力に目をつけ、国民の統合者として選び、国家の命運を彼に託した。これがイタリア型ファシズムだ。

戦前の日本では、天皇を神輿に担ぎ、野心のある若者を集め、特権階級のコントロールが届く範囲で、国民を熱狂に導こうとした。権力の誘導するままに動いた。これが日本型ファシズムだ。

今回の件で、大騒ぎをしたい若者が、相当数、日本にいることがわかった。私も大騒ぎが好きだ。子どものとき、火事があれば見に行き、台風が来れば川の氾濫を見に行った。しかし、その大騒ぎが何を生むか、指摘する者がいないといけない。

それが、みんなに自由と平等をもたらす大騒ぎか、多く人から自由と平等を奪う大騒ぎか、考えないといけない。権力の許す大騒ぎは、おかしい、と気づかないといけない。それは、自由と平等が奪われる道である。

それよりも、投票先を落ち着いて考え、きちんと選挙に参加することである。