猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

日本の伝統を守ることのウソ

2019-05-07 22:18:23 | 歴史を考える

日本の民族派、保守派を自称する人たちは、「日本の伝統を守る」と言う。
文部科学省の道徳科の『学習指導要領解説』にも、「伝統と文化の尊重」がかかげられている。

この「日本の伝統」とは何なのか。

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東日本大震災のときは、列を乱さず、黙って、水やおにぎりなどの支援物資を受け取ることが「伝統」だ、といわれた。
天皇の退位と即位の儀式のとき、アマテラスオオカミをはじめとする皇居の中の神々にご報告をすることが「伝統」だ、といわれた。
昨年、大相撲春巡業の宝塚場所で、女性市長が、土俵に上がってあいさつしようとしたら、「伝統」に反するという理由で、止められた。

私の郷里、実家の近くに「石浦神社」と「尾山神社」とがある。戦前の話だが、石をまつった石浦神社は、前田利家をまつった尾山神社より下等とされた。尾山神社は石川県内の石や松や狐をまつった「下等な神社」を治めるものとして、天皇を神とする神道に仕えた。そして、尾山神社の神主には公費が支給された。

それでは、石や松や狐をまつるのが日本の伝統なのか、支配者、天皇や前田利家をまつるのが日本の伝統なのか。石や松や狐をまつるのは古く、死んだ支配者をまつるのは、江戸時代に始まり、天皇や前田利家をまつるのは明治以降である。

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「日本の伝統」とは非常に漠然とした概念であり、支配者の都合で決められてしまう。そして、国民に思考停止を強要する。

文部科学省の道徳科の『学習指導要領解説』を読むと、「伝統と文化の尊重」の狙いがわかる。

これは、「国や郷土を愛する態度」と組になっている。「伝統」とは、「国や郷土を愛する」動機付けである。

古いものがいいはずはない。多くの古いものは、考古学的に意味があっても、現在の生活スタイルや価値観からみれば、ゴミである。和式のトイレは、使いたいと思わない。『論語』なんて、個人や自由や平等や愛の概念が欠落しており、人民統治手法の議論しかない。

いいはずのない古いものを すばらしいものと おもわせるために、歴史を改ざんする。学校教育を利用する。
これが民族派、保守派のやっていることである。伝統を守る、国を守るという名目で、自分たちの特権を守ろうとしているだけだ。

伝統の継承者として守り続ける責任?どうする新天皇

2019-05-07 20:35:38 | 天皇制を考える


この連休中、テレビで、宮中祭祀の行事を「日本の伝統はいいものですね」と、若いアイドルがコメントしていた。

「日本の伝統」とはなんだろう、「伝統」ということに価値があるのだろうか、と私は戸惑ってしまう。
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「昔ながらの洋食屋」と言われたら、私は、「まずい味」のレストランを思い浮かべてしまう。生活習慣も昔と変わり、使える素材も増えたのだから、味も進化しないとおかしい。

私は北陸の金沢に生まれ育った。子供のときに、「のれんは三代と続かない」という話を何度も聞かされた。「老舗(しにせ)のお店屋さん」といっても、ほとんどが、「のれん」を買って、経営者が変わっている、と教えられた。

創業しても、代が下るに、バカ息子になって、のれんを維持できなくなるという話である。「伝統」だけでメシが食えないという話である。創意工夫の努力が常にいるとの話である。

私の同級生に和菓子屋さんの長男がいて、いつも、朝遅く、お手伝いさんに連れられて来た。5年前に故郷に帰ったら、その子の店の「のれん」も買い取れ、まったくの赤の他人が経営者になっていた。ニセ「のれん」の和菓子屋が繁盛していた。

「のれん」では続かない。「伝統」は破られるためにある。さもないと、「伝統」とは「劣化」のことである。庶民の世界は、かように健全なのだ。
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約3年前の8月8日、前天皇の明仁が、ビデオメッセージで「伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し」と語った。NHKテレビを経由して全国に流れた。

「これを守り」の「これ」は、「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方」のことである。「これ」と「伝統の継承者」とに、なんの関係があるのか。

更に、「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」という言葉が続く。
そして、この後、「象徴的行為」として「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務め」という言葉が出てくる。

このビデオメッセージの全文は、宮内庁のサイト www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12に掲げられており、誰でもいつでも読むことができる。

日本国憲法のどこにも、「天皇」が「伝統の継承者」であるとは書いてない。とても不可解なビデオメッセージだ。にもかからず、これが全国に流されたことがきっかけになって、天皇の退位が実現した。

このメッセージの「祈る」という行為が「こころのなかで願う」ことなら、「個人的な行為」と受け止めることができるが、現実には、夜な夜な宮中祭祀を行っていたのであり、「個人の信条の自由」の範囲を超えている。

日本国の安泰、皇室の繁栄を祈るのは、明治以前は、仏教の僧侶の仕事であった。それが「伝統」であった。だから、京都や奈良にたくさんの寺院がある。

今から、120年前、明治にはいり、政府は「神仏分離令」を発し、祈りを神道の仕事とした。怒涛のような欧米からの文化の流入に対抗し、政府は、国民統合の象徴として「天皇が生き神様」の伝統を新たに作った。「国=天皇=神」の虚構である。神道と天皇との結びつきは、この時に作られたものである。

昭和の敗戦は、これを否定した。昭和天皇の「人間宣言」であり、憲法の「政教分離」条項である。

ところが、この平成の30年間に、平成天皇自身によって、国民統合の象徴としての天皇を「国民の祭司」すなわち「神主さんのトップ」のイメージに改ざんした。「天皇=祭司」は平成の虚構である。これは、憲法の「政教分離」に違反する。怪しげな「祈り」は私にとって迷惑だ。伝統でもなんでもない。

「象徴天皇」とは、憲法の矛盾に満ちたキズであり、平成天皇は、これを利用して、皇室の安泰を謀ってきた。すなわち、「伝統」を守るふりをしながら、創意工夫をして「伝統」を改ざんしてきた。

さあ、さあ、新天皇、令和天皇は、どうする。平成天皇の改ざんを受け継ぐのか。