猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

自由主義神学者ハルナックの『キリスト教の本質』

2019-05-11 15:24:06 | 宗教


自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックは不当な評価を受けているのではないかと思う。

『キリスト教の本質(Das Wesen des Christentums)』を読む限り、彼は、普通の牧師が話すような、あたりまえことを言っているだけなのに、キリスト教保守派からは罵倒される。彼は、何かに縛られることのない「自由」、誰かが誰かを支配することのない「平等」、争わない「平和」な生き方が話すだけなのに、罵倒される。彼の言っていることは、聖書の福音書をつらぬく精神ではないか。

森本あんりは、『異端の時代――正統のかたちを求めて』 (岩波新書)で、 ハルナックが、バルトニア海に面した小国エストニアに、1851年、生まれたことに着目する。

エストニアの多くの人々はウラル語族に属するエストニア語を話し、残りがスラブ語族のロシア語を話している。ウラル語族は日本語と同じような「助詞」のある語順フリーの言語であり、ドイツ語とはまったく異なる。スラブ語族もドイツ語と異なり、冠詞だけでなく、名詞や形容詞の格変化(語尾変化のこと)があり、ウラル語族と同じく、語順に自由性がある。

イエスが、多言語環境のナザレに生まれ育ったように、ハルナックもそのような環境に生まれ、コスモポリタンとして育ったはずである。皮肉なことに、彼の『キリスト教の本質』がドイツ帝国で評価され、彼はどんどん経歴を上り詰める。ベルリン大学総長や学術振興協会総裁や王立図書館館長を歴任し、第1次世界大戦の開戦にあたって、皇帝ヴィルヘルム2世の勅書を書くにいたる。

森本あんりはこの経歴を「屈折した愛国心」と形容する。

凡庸なほど まっとうな ハルナックの『キリスト教の本質』は、当時の知的ドイツ人の心をつかんだ。しかし、「正統」な神学者からみれば「異端」であったらしい。森本あんりによれば、それは、キリスト教信仰の根幹部分をなす教義「三位一体論」や「キリスト論」を含んでいないからである。

三位一体論とは「神が父・子・精霊の三位格をもつ1つなる神である」こと、キリスト論とは「子なる神がまったき神でありかつ同時にまったき人であって、神人の両性は混合することも分離することもない」ことである。わたしには、理解不可能な呪文である。

森本あんりによれば、根幹教義に対する「そんなことはどっちでもいいじゃないか」というハルナックの態度が、「正統」な神学者には許せなかったらしい。

私は、さらに、ハルナックが、旧約聖書をキリスト教の正典から取り除くべきと述べたことが、保守派の虎の尾を踏んだ、のではと思う。

プロテスタントの長老派教会は、毎日曜日、十戒を全員で唱えるが、これは、旧約聖書の『出エジプト記』や『申命記』からくるものである。これを含むモーセの五書は、あまりにも民族主義的だし、男性中心的である。「神ヤハウェに逆らうものは殺せ」「男の所有物である妻をおかすものは殺せ」は、コスモポリタンの精神には苦痛であった、と思う。

旧約聖書の中には、民族主義的な部分と普遍主義的な部分とがある。『ヨブ記』『箴言』『コへレトの言葉』などは普遍主義的な部分である。

ハルナックの『キリスト教の本質』を読むと、私は、思想として、プロテスタンティズム(特にカルヴァン主義)とナチズムと反ユダヤ主義との関係の整理が必要である、と思う。

深井智明の懲戒処分は言論・出版の自由の侵害

2019-05-11 11:24:24 | 自由を考える

深井智朗氏の著書『ヴァイマールの聖なる政治的精神』(岩波書店)に、「引用した論文とその著者の捏造がある」と認定し、東洋英和女学院が著者を懲戒解雇処分とし、岩波書店が著書の出荷を停止した。

私は、この懲戒解雇処分・出荷停止を言論の自由、出版の自由への侵害だ、と思う。『ヴァイマールの聖なる政治的精神』が図書館で読めなくなることを恐れる。

本に誤りがあったって、いいじゃないか。そんなものは珍しくない。

物理学の有名な教科書でも、ミスプリントでない間違いがある。たとえば、論理に誤りがあり、重要な現象の起きうることを見落としているとか、あるいは、他人の論文を読んでいて結論はあっていても、著者の証明には誤りがあるとか。私も、若いとき、ずいぶん、見つけたものだ。

本の誤りをみつけることは、新しい発見につながる。

だからと言って、誰も、その本を図書館から追放しようとは思わない。歴史的価値があるからだ。本の追放はあってはならない。

現代では、論文を書くことがビジネスになっているので、意図的な偽造もでてくる。ただし、意図的か、単なる誤りかの判断は難しい。物理学では、みんな新発見をして、職を得たいと思っているので、焦って、チェック不十分で論文を書く。

物理学界では、1960年代の重力波検出、1980年代の低温核融合発見は、意図的な偽造とはみなされていない。単なる検証不十分とされている。しかし、検証不十分は、追試できないことによる、結果論である。追試ができれば、これらの著者は先駆者になる。

最近出版された『生命科学クライシス―新薬開発の危ない現場』(白揚社)は、生命科学分野の論文が新薬開発と結びついていて、追試の成功しない論文が増えていると指摘している。「増えている」ということは非難に値するが、論文の著者を懲戒解雇処分すべきとは言えない。

すなわち、追試ができない論文を指摘することや、本の誤りを指摘することは、真実を求める気持ちからくるもので、支持できる。

しかし、懲戒解雇処分や出版停止となると、私は反対せざるをえない。多様性に対する寛容なこころがない。

とくに、深井智明は、プロテスタンティズムを一歩引いて客観的に見ようとする、日本で数少ない、宗教学者である。ヨーロッパでは、ミル、ラッセルのように、カルヴァン主義(Calvinism)を批判する哲学者は少なくないが、日本では大塚学派のようにカルヴァン主義こそ正当なプロテスタンティズムとする者が多い。思想の多様性という観点から、深井智明は、必要不可欠の逸材である。

とくに、『ヴァイマールの聖なる政治的精神』は、私の興味あるテーマを扱っている。

ナチスが政権をとるまでの第1次世界大戦後のドイツの政治体制をヴァイマール体制と呼ぶ。

19世紀の終わりからドイツでは、ルター派のなかに自由主義神学が起きた。第1次世界大戦でドイツが敗北することで、自由主義神学は打撃をこうむった。第2次世界大戦で再びドイツが敗北することで、自由主義神学が壊滅した。それとともに、プロテスタント系の教会に信者が戻ってこなかった。

これが、なぜかである。

本というものは、1つの考え方を示すものであり、その一部に誤りがあるからといって、排除すべきではない。また、著者を懲戒解雇処分にすべきでない。思想の多様性は未来のために必要なのだ。