安倍晋三は、日本人の命と財産とを守るために、外国にも兵を送ると、言い張ってきた。
安倍だけでなく、現在、中学の公民の教科書にも、アメリカを盟主とする自由主義陣営は、個人の財産を守る国々であると書かれている。そして、日本は自由主義陣営に属するとある。
確かに、戦前の大日本帝国憲法にも、戦後の日本国憲法にも、国は個人の財産の守ると書かれている。
大日本帝国憲法
第27条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
○2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
日本国憲法
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
しかし、私有財産(私的所有)は そんなに崇高なものなのだろうか。
私有財産を守らなければいけないという考えは、欲にまみれた権力者に、苦労して稼いだ財産が奪われないように、ということに始まるらしい。そう、私的所有権は近代のコンセプトである。昔の人たちは 何でも共有していたのである。
この私的所有の権利という考えは、ジョン・ロックにさかのぼることを最近になって気づいた。ロックは、自然は共有のものだが、労働が私的所有の権利を生むと『統治論』で主張する。
しかし、人間社会は、互いに協力し合って生産活動や消費活動を行っている。どこからどこまでが個人の労働によるのか、ハッキリしない。それなのに、この20年、日本の企業経営者はアメリカ並みにもっと俸給をもらわないと、主張し始めた。経営者が平社員の100倍、1000倍の俸給をもらうという根拠はどこにあるのだろうか。
戦前のドイツ映画『メトロポリタン』では経営者は「頭で働いている」から俸給が高いのだと主張している。「頭では働いている」人は「手で働いている」人より、素晴らしい仕事をしているのだという。トルストイの『イワンのばか』はこの「頭で働く」ことをおちょくっている。
J. K. ガルブレイスは、伝統的「経済学」では「労働」が経済的格差を生むのではなく、「競争」が経済的格差を生むとしてきた。市場での競争の勝利者が豊かになり、敗者がすべてを失うのだという。そして、この「競争」という考えに彼は疑義をぶつける。
大企業の経営者は組織を束ねているだけで、じっさいは、社内の派閥争いをしてのし上がってきただけである。日本の経営者は、人間関係を築くことでのし上がってきただけで、市場での競争に対して何かヴィジョンがあるわけではない。そして、新しい経営者が、大きな商品開発組織、販売組織を引き継いだにもかかわらず、市場で敗退し、社員を路頭に迷わす。
「競争」というものに疑義をもつなら、「私的所有権」にも疑問を持つべきではないか。
[関連ブログ]