猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ゆたかな社会に競争はいらない、時間はゆったりと流れるものだ

2021-09-17 22:49:57 | 社会時評

競争というものが本当に必要なのか、疑わしいと私は思っている。

現在、学校教育で子どもたちに成績で競わしている。しかし、学ぶべき事柄が本当に適切に設定されているのか、また、教育の場に多様性が不要なのか、多様性が求められるのでは学力を同じ物差しで測るのは間違いではないか、

同じように、市場でも企業の競争というのが、必要なのか、疑わしいと思う。

10年ほど前、40年ぶりに県人寮の友達と顔を合わせた。

話しを聞くと、カルテル談合の罪で刑務所に収監されていたそうである。本人の弁では自分は無実で最高裁まで争いたかったが、会社が争い続けることに反対し、刑に服したとのことである。そのご褒美に、いまは、子会社の社長を務めているとのことである。

私が勉強になったのは、その子会社の仕事である。バケツやちり取りのようなプラスチック製品を売っているとのことである。どこでも作っている製品を売るために、社長の自分が、毎日、商店を回って、頭を下げて仕入れをお願いしている、と言う。

本社は大手の化学会社だが、毎年、天下りの社員を自分のところに送ってくるが、何も働かず、自分の御用聞きまわりで、何の特徴のない子会社が維持され、天下りに給料を払っていると、不満たらたらであった。

面白いと思ったのは、何もセールスポイントのない会社が、社会に必要とされ存続できていることである。プラスチックのバケツやちり取りは依然として需要があるのである。

私たちが日常に必要としているのは、昔と変わらないものがほとんどである。日本の家電メーカは一時、洗濯機や掃除機や冷蔵庫や電器釜などの白物家電を、最先端の家電分野でないと判断し、その製造をアジアの国々に渡したが、その市場は依然として大きい。日本の家電メーカーは先を見誤ったのである。

働くということは地味な仕事である。メディアでいうような特別の才能が必要なわけでない。ちょっとした工夫でも消費者に喜ばれる。

大半の市場は昔からあるもので、強迫症になるほどの競争を必要としていない。昔ながらのゆったりした時間のなかで、消費者に喜ばれるような改良を加えていけば十分なのである。

ゆたかな社会とは、儲けなくても ありつづけれる社会である。ゆたかな社会で大きく儲ける者は、どこかおかしい、詐欺師か犯罪者か、悪人か心をやんでいるか、である。

競争は豊かな社会に不要である。あるべきでない。