きょうの朝日新聞の《耕論》は『生産性ですべて計れる?』である。このタイトルはちょっと視点がずれている。論者の3人、中里良一、伊藤真美、関満博は「生産性向上」が中小企業にとって意味ないと言っているのだ。しかも、3人のうち、中里と伊藤が中小企業の社長である。
関によれば、1960年代から菅政権にいたるまで、政府は中小企業の生産性を向上させるという政策を繰り返してきたという。そして、「生産性向上」は中小企業対策に限られない。魔法の言葉のように政府によってあらゆる方面の政策に使われてきた。すなわち、「生産性向上」は意味のない言葉になっている。
安倍晋三は今年の1月20日の所信表明で、「農地の大規模化、牛の増産や、水産業の生産性向上など、三千億円を超える予算で、生産基盤の強化を進めます」と話している。
安倍政治を継承すると言う菅義偉は10月26日の所信表明で「人生百年時代を迎え、予防や健康づくりを通じて健康寿命を延ばす取組を進めるとともに、介護人材の確保や介護現場の生産性向上を進めます」と話す。
教養のないふたりのことは忘れて、問題を論理的に考えてみよう。公益財団法人日本生産性本部は、生産性を
生産性=産出÷投入
で定義する。産出と投入の単位は目的によっていろいろである。例えば、
生産性=生産量÷労働者数 ①
や
生産性=生産量÷(労働者数×労働時間) ②
などである。
「生産性向上」とは、同じ単位を使い、その時間的推移をみて、増加していればよいとするものである。したがって、企業が儲かるとか労働者の賃金が上がるとかとは、「生産性向上」は無縁なのである。
市場が増加しなければ、生産量を増やすことができないから、定義①の生産性向上は、労働者の失業を招く。そして、企業にとって、生産性向上のために行なった設備投資は回収できない。ますます経営は困難になる。定義②でも同じである。労働者は労働時間の減少にともなって収入が減る。あるいは、企業は労働者を解雇するかもしれない。
中里は、次のように語る。
〈 短時間に大量生産するために最新の機械を買います。古くなったら、また最新の機械を買い、また古くなり、また買って……。町工場が生産性を追いかけると、借金地獄に陥るのが関の山です。〉
すると、生産性向上は物が足らなかった戦後の復興期の政策でしかない。にもかかわらず、1960年代以降も続いたのは、アメリカの市場に進出できたからである。しかし、その結果招いたのは、日米経済摩擦である。日本が生産性を上げ、余剰の生産量をアメリカに売り込めば、アメリカの労働者が失業や賃下げで悲鳴を上げるのはあたりまえである。
中小企業の経営で一番大変なのは資金繰りである。無理な事業拡大をしなくても、自由経済には景気の波があるから、資金繰りの困難が生じる。景気の波を小さくするとか、資金繰りの問題を政府融資で和らげるとかが必要である。また、リーマンショックや消費増税のような、明らかに経済政策の誤りから生じる市場の縮小を避けるべきである。
新型コロナの場合も、観光事業に軸足を置きすぎた政府の経済政策が、意味不明な菅の感染対策とともに、日本経済への打撃を大きくしている。
日本は、「生産性向上」を目指す社会では もはやない。
すでに物があまっていて、しかもエネルギー消費を抑えた方が望ましい脱炭素社会である。この新しい社会の経済政策について、もっともっと、オープンに議論すべきだろう。
保育や教育や看護や介護のような、人間が人間にたいするサービスで、働き口を増やすのが、あたらしい経済対策になるかもしれない。あるいは、せかせかと働くのではなく、のんびりとして、どうしたら、みんなと仲良く楽しく暮らせるかと考える時間を増やすことかもしれない。また、福祉への財政支出の増加も望ましい経済政策になるかもしれない。人混みを作らない個人的文化の消費を掘り起こすのも良いかもしれない。
とにかく、もっともっと考え、議論し、やってみることだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます