きょうの朝日新聞の〈インタビュー〉は宇野重規だった。『民主主義を信じる?』が記事のタイトルである。疑問符?は記者が勝手につけたもので、宇野は、私と同じく民主主義の擁護する。
私は、彼の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)を読んでいたが、最近の本、『民主主義を信じる』(青土社)や『民主主義とは何か』(講談社現代新書)を読んでいなかった。これらを読んでみたくなった。
民主主義を否定する、あるいは、信頼しない理由が、私はわからない。
19世紀の「民主主義」の否定は、大衆の登場によって、自分の地位が脅かされることのエリート層の不安である。フリードリヒ・ニーチェの著作を読むと、「愚かな大衆」が発言しだすことの不安が前面にでている。
しかし、自分の意志が、「愚かな大衆」のたわごとと無視される側からすれば、民主主義ほど、素晴らしいものはない。
「民主主義」を否定する者は、自分だけが優秀で、ほかの者は口答えするな、という立場である。菅義偉は、自分は首相だからすべて自分が決めるんだ、という。私からすれば、彼は明らかに横暴な人間である。
宇野重規は、ポピュリズムについて、つぎのように言う。
《ポピュリズムは民主主義の敵とされることもありますが、『腐敗したエリートたち』によって自分たちの声が排除されているという、異議申し立ての側面があります。もっと参加させろ、と》
私もそう思う。「ポピュリズム」は決して悪いことではない。ところが、新聞などでは、よく「ポピュリズム」という言葉を罵り言葉として使う。「愚かな大衆」は黙っていろという趣旨で使う。
藤原貴一は民主主義を「代議制」だと言っていたが、宇野重規はこれを否定する。
《歴史を振り返ると、民主主義と議会制は本来、別のものでした。少なくとも18世紀までは、市民による直接的な統治である民主制と、選ばれた代表者による意思決定である共和政は明確に区別されていました》
私は、民主主義とは、人はみな対等であるという原則に基づき社会をきずくことだと思っている。宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』もそれに近い考えを書いている。代議制とは単なる便宜的なもので、いったん、選ばればなんでもやっていいわけではない、少なくても民主主義を否定することはやってはいけない。それを防ぐために、「表現の自由」の1つにデモの権利がある。そして、どれだけ、少人数であっても、デモを堂々とすべきであると思う。
宇野重規は、現在の日本社会をつぎのように批判する。
《自分たちが意見を言おうが言うまいが、議論をしようがしなかろうが、答えは決まっている。ならば誰か他の人が決めてくれればそれでいい――そういうあきらめの感覚に支配されること。これこそが民主主義の最大の敵であり、脅威だと思います》
安倍晋三、菅義偉は、政治をヤクザの抗争のように、戦国時代の天下取りのようにみなし、大衆のいうことは聞こえないふりをし、大衆を諦めに追い込もうとしている。どの政党もくだらないものと思わせ、棄権に追い込もうとしている。
これに逆らうには、自民党に反対する政党に投票するか、自分自身で党をつくるか、デモの権利を実行するかすればよいのだ。
民主主義では、みんなが対等である。自分が自分の意見を言うことは悪いことでない。それが、個人の尊重である。政府は、国民を統治するのではない。政府は、国民にサービスする機関である。
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