ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章の、イワンの作った物語詩の中で、90歳の大審問官は、イエスが民衆に自由をあおった、と、牢の中の男を長々と罵る。
そして、この罵りは、「賢い悪魔の3つの問い」を軸に、なされる。
もちろん、聖書には「賢い悪魔」という言葉はなく、「恐ろしい、賢い聖霊、自滅と虚無の悪魔が、偉大な悪魔が」というイワンの言葉を、私がここで簡略化しただけだ。
ドストエフスキーは、『マタイ福音書』の4章1節から4章11節を、また、『ルカ福音書』の4章1節から4章13節をもとに、この「賢い悪魔の3つの問い」を書いている。
ヨハネ福音書には、それに対応する記述が、まったくない。
『マルコ福音書』にも、1章12-13節に
「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」(口語訳)
とあるだけで、悪魔の3つの問いはない。
旧約聖書の『ヨブ記』以来、神が信仰をためすとき、サタンが神に代わって行うことになっている。サタンのヘブライ語の意味は「邪魔する者」である。
サタンは、ギリシア語で、ギリシア語では、“διάβολος”(ディアボロス)と訳されたり、“σατανᾶς”(サタナース)と訳されたりする。
日本語聖書は、ディアボロスを「悪魔」と訳しただけだ。
「悪魔」は、決して、頭に角があったり、しっぽやひずめがあったりするわけではない。人間の顔をし、人間の体をもっている。ただ、口がたち、鋭い頭脳を持ち合わせているだけだ。
ドストエフスキーの賢い悪魔の3つの問いの順は、『マタイ福音書』の順と一致する。そのイエスの答えは、すべて旧約聖書の『申命記』からの引用である。
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(『マタイ福音書』4章3節)と悪魔は試みる。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(『申命記』8章3節)とイエスは答える。
「もしあなたが神の子であるなら、(エレサレムの神殿の先端から)下へ飛びおりてごらんなさい」(『マタイ福音書』4章6節)と悪魔は試みる。
「主なるあなたの神を試みてはならない」(『申命記』6章16節)とイエスは答える。
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのもの(権力と賞賛)を皆あなたにあげましょう」(『マタイ福音書』4章9節)と悪魔は試みる。
「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(『申命記』6章13節)とイエスは答える。
「賢い悪魔」の口を借りて、ドストエフスキーは、精神的よろこびは、物質的よろこびを上まわるか、という根源的な問いを発している。
どうして、「反抗」をやめて、世の権力に「服従」しないのか、を問うている。
大審問官の口を借りて、ドストエフスキーは、なぜ、「奇跡」、「神秘」、「権威」の力を使わなかったのか、と、イエスを罵る。
たしかに、「賢い悪魔」の3つの問いに、イエスは、『申命記』のドグマを引用しているだけで、真面目に答えていない。
しかし、実体のない「奇跡」、「神秘」、「権威」なんかも、妄想の世界の外では、まったく無力である。頼るわけにはいかない。大審問官は、民衆をバカだバカだとささやいているだけである。
ドストエフスキーは、イワンの口をかり、『マタイ福音書』の非合理性を、暴いているのだろうか。
この章に、私は、ドストエフスキーの生きる立場の迷いを感じる。迷っているからこそ、小説を書かざるを得ないのだろう。迷いを、登場人物に叫ばせている。
私自身は、「奇跡」、「神秘」、「権威」に、なんの魅力も感じない。悪魔の3つの問いにも興味がない。
悪魔に正直に答える必要も感じない。
不都合な時代には、「めげない」、「ずぶとい」、「しぶとい」こそ、生きる力である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます