マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)の書評を読むうちに、これは、「平等」の問題と関係していると思った。
「平等」は、宇野重規が説いているように、民主主義の基本である。人間はみな対等であり、専門家でなくても、臆することなく、自由に発言して良い。人間関係に上下がなく、子と親の関係、生徒と先生、患者と医師、社員と社長との関係も対等でなければならない。
育鵬社の公民の中学教科書は、「平等」を「法の下の平等」と説明する。
《人は顔や体格はもちろん能力も性格も千差万別です。しかし法はそのようなちがいをこえて平等な内容をもち、すべての国民に等しく適用されなければなりません。》
《一方で、憲法は人間の才能や性格のちがいを無視した一律な平等を保障しているわけでありません。》
これでは、「機会の平等」と同じく、現実の格差や人間関係の上下を正当化するもので、誤りである。また、「法」を「平等」の中心にすえるので、法律の専門家に有利な社会制度を許してしまうことになる。
東京書籍の公民の中学教科書の「平等権」はつぎではじまる。
《全ての人間は平等な存在であり、平等な扱いを受ける権利である平等権を持っています。》
したがって、民主主義の理念、「人権」とは、人間みんなが対等であるという根本理念にもとづき、支配者だけがもっていたすべての権利を、すべての人に与えたものである。
しかし、東京書籍は、上の文の直後に、つぎの厄介な文を付け加える。
《しかし、偏見に基づく差別が、今なお残っています。特に「生まれ」による差別は、基本的人権の尊重という日本国憲法の基本原理に反するもので、決して許されません。》
「差別」とは「平等」の反対語なのだろうか。「差別」とは、「差別」する主体の存在を仮定していないだろうか。「偏見に基づく」とは誰が判定できるのだろうか。なぜ、「偏見」が生じるのだろうか。
辞書によると、「差別」とは、「わけへだて」、「けじめ」のことだとある。ビジネスでは「商品の差別化」という使われ方をしているが、社会問題では、「格差の肯定」や「侮蔑」という意味で使われている。
私は、社会に不公平があり、それを正当化したい側がつける屁理屈が「差別」であると思う。したがって、「偏見に基づく」という言葉はいらない。「格差」を肯定することも、自分より格下として「侮蔑」することも、あってはならない。
去年の11月に、TBS『報道1930』で、森本あんり、中山俊宏をゲストに迎え、『米大統領選挙の主役となった「陰謀論」』というテーマで対話があった。
そこで、森本は、アメリカの労働者(workers)がトランプの嘘に騙されていると単純に見てはいけないと言った。この指摘は、アメリカの人びとにある不公平の現実を見逃して、知識に欠く労働者が騙されたとだけ見るのは、「偏見」だということである。
そして、森本は「ディープストーリー」(心の奥深くで感じる物語)という観点を紹介した。それが、A.R.ホックシールドの『壁の向こうの住人たち』 (岩波書店)のたとえである。
《山頂には豊かになれるというアメリカン・ドリームがあると信じ、人々が長い行列に辛抱強く並んでいる。が、列に割り込んで先に行くものがいる。それは移民であり、マイノリティであるという。》
このたとえのおかしなところは、自分より先に豊かになれる人がいるのに、それを問題にしない所である。「長い行列に辛抱強く並んでいる」が、格差があるのこと、不平等があることを問題にしていない。根本的に誤っている。
しかし、彼らが誤っていることをばかにしてはいけない、というのが森本あんりの主張である。彼らにそう見えているのは、それなりの事情があるからで、対話を諦めてはいけない、ということなのだろうか。
日本でも同じ問題がある。ネットで不平不満をいうと、それを叩く人々がいる。不平不満の矛先がオカシイというのではなく、単に首相の悪口はいけないとか、世の中は厳しいだとか、いう現状に甘んじろという意見でしかない。
本来、この格差社会の頂点にあるものを批判し、引きずりおろさなければならないのに、自分より下にあると思った対象に不公平の怒りをぶつけるのは、誤りである。これは、日本での「在日特権を許さない」とかアメリカでの「アジア系へのヘイトクライム」に典型的見られる。
いっぽう、トランピズム批判のなかにある偏見にも、厳しく正していく必要がある。
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