村上春樹と柴田元幸の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書)を読んで、「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読むことはひとつの通過儀礼みたいなもの」の言葉にとてもひっかかった。また、「フィービーという存在はあまりにもイノセンスに過ぎる」の言葉にさらにひっかかった。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、17歳の少年ホールデンが、放校になってニューヨークの街をさまよった自分の記憶を読者に語る小説である。
フィービーはホールデンの妹である。作者のサリンジャーには妹がいない。したがって、フィービーも、また、ホールデンと同様に、サリンジャーの分身といえる。作者の心のなかの葛藤をホールデンやフィービーに投影しているわけだ。
このようなわけで、村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と、原書の“The Catcher in the Rye”をもう一度読み返した。
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「通過儀礼」という言葉に、子どもがおとなになるために何かを捨てるべきだ、と、村上と柴田は暗黙のうちに合意しているように見える。このふたりが何を捨てると言いたいのかが、私にはまだわからない。ただ、ふたりは、ヒトは社会に適応していかないといけないと思っていることは、確かである。
この小説には、ホールデンを追い出した母校(old Pency)のふたりのましな先生(the couple of nice teachers)がでてくる。小説のはじめに出てくるのは、貧乏で小心なスペンサー先生(old Spencer)である。後半に出てくるのは金持ちで知的ぶったアントリーニ先生(Mr Antolini)である。
ホールデンは ふたりとも なつかしいが インチキだ(phonies)と言う。
村上も柴田もこの後半に出てくるアントリーニ先生に何も違和感をいだかないことが、彼らが、社会に適応することが正しいと思っている証拠である。
私は、社会に適応できないヒトがいて何もおかしくないと思う。1つの生き方を強制する今の社会のほうがおかしいのである。だから、私は、ホールデンを自分のことだと思うよりも、社会に適応できないホールデンを抱きしめて励ましたいと思う。
アントリーニ先生はつぎのようにホールデンに言う。
「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」
“The mark of the immature man is that he wants to die nobly for a cause, while the mark of the mature man is that he wants to live humbly for one."
こんなことを偉そうに言うなんて、インチキの塊だ。
ホールデンが、アントリーニ先生の話を聞いて、とても眠たくなると、サリンジャーが書いたのは、生理的に先生の言うことが受け容れられない、脳の扁桃体が拒否していることを言いたかったのだ。適応を求めてくる社会をアントリーニ先生が象徴している。
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村上と柴田がフイービーのことを「イノセンス」と言っているのが また理解できない。サリンジャーはinnocenseなんて、小説のなかで使っていない。
“innocent”は、“not guilty”、“harmless”、“knowing nothing of evil or wrong”、あるいは “foolishly simple”のことである。
「すぎる」という言葉を付加するには“not guilty”では無理である。「無邪気すぎる」か「単純バカすぎる」のいずれかであろう。
じつは、原著を読むと「フィービー」は、すべて“old Phoebe”となっている。村上はこの“old”を訳していないのである。
この”old” は何なのだろう。「古風な」「大人びいた」「こましゃくれ」あるいは「おませ」なのだろうか。
サリンジャは、フィービーがかわいくてたまらないんだ、とホールデンに言わしている。
we used to take old Phoebe with us. She’d wear white gloves and walk right between us, like a lady and all.
フィービーはこましゃくれて、白い手袋をつけて、いっぱしの貴婦人のように歩いたりするのだ。
子どものとき、女の子は大人の真似をして、大人の称賛を浴びようとする。これを「単純バカ」といえばそうだが、サリンジャーにとっては、苦しみを知らない心の動きの単純さが、かわいくてたまらない。
とすると、「イノセンス」は、世の中の邪悪さをまだ知らないという意味であろう。これのどこが悪いのか。
よく私が何か言うと、私のことを「お花畑」とか「平和ボケ」とか言う人がいる。世の中が邪悪でも自分が邪悪である必要はない。「イノセンス」を捨ててまでして、社会に適応しなくても良いのだ。
なお、「evil(邪悪)」ということばは、ルター、カルヴァンを経て意味が変わっている。もともと、“evil”は生理的に不快だという言葉で、倫理的な意味はなかった。
とにかく、村上訳は、英語を日本語に置き換えたのではなく、村上の人生観にもとづく新たな創作であって、できれば、サリンジャーの原著を読んだ方が良い。
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