宇野重規が けさの朝日新聞の《論壇時評》に、『戦争への想像力 平和主義の行方 どう語るか』という見出しで、戦争の歯止めになってきた「戦争は嫌だ」という日本人の感情が希薄化したが、「国家の決定によって国民が死ぬということへの想像力は依然として重要である」と言う。
私より20歳も若い宇野の言い方は、どうも、控え目すぎて、若い人にはわかりにくいのではないか。
宇野は戦争をすべきでないと考えている。だから、みんなに、戦争とは何であるかの認識をもってもらって、こころから戦争に反対してほしいのだと思う。宇野は、中立ぶらず、ハッキリ言うべきである。
宇野は、論壇時評で、防衛研究所の高橋杉雄の指摘「戦争を防ぐためにも軍事の常識が重要である」をとりあげた。しかし、この「軍事の常識」とは何かについては、宇野は「軍事力は人を殺すもの」「一度使い始めるとなかなか止められない」としか引用していない。高橋は何を「軍事の常識」と言わんとしたのか、彼の著作『日本で軍事を語るということ──軍事分析入門』(小社刊)を読まないとわからないのだろう。宇野は文献として中央公論9月号をあげたが、これは、中央公論編集部による高橋のインタビュー記事である。
ネット上にあらわれたインタビュー記事を読むと、戦争は大量のお金と労力と人の死を要することを、高橋は軍事の常識と言いたいのだと思う。戦争は大量のお金と労力と人の死を要するから、戦争をはじめたら、戦果を挙げて相手を屈服させないと、政府は戦争をやめたと言えない。戦果はなかなか挙げられないから、戦争を終えられない。
高橋はミサイル攻撃の例を挙げている。ミサイル攻撃をかけても、建物を破壊するが、人はまだ生き残っている。相手国の政府が降伏するか、核兵器を使ってすべての人を殺さない限り、戦果を挙げたことにならない。核兵器を使わないなら、地上部隊に市街戦を行わせ、住民を皆殺しにするか、降伏した住民を別の土地に移送して、反撃能力を皆無にしなければならない。
「軍事の常識」とは、民間人からすれば、自分が殺されるか、自分の住む所を奪われるか、しかないということである。戦争は善意の人を不幸のどん底に突き落とす。
高橋は戦争に反対かどうかは言わないが、「軍事の常識」を覚悟して、国民は戦争を決断せよと言っているように思える。
宇野は「台湾有事」にも論壇時評で言及している。
「米外交政策の専門家であるハル・ブランズや、元航空自衛隊の尾上定正らが台湾の侵攻のリスクが高いと分析し、日本がそれに備えることを説くのに対し、エコノミストのリチャード・クーや台湾出身の劉彦甫らの分析は、有事に可能性についてははるかに慎重である。」
宇野は「双方の議論を検討することが大切である」と言うだけで、検討した結果、宇野はどう考えたかを言わない。宇野は逃げているのではないか。
「日本がそれに備える」とは何を言うのか。侵攻があったとき、日本はどう行動せよというのか。日本は中国と戦争をせよというのか、そのとき、アメリカは日本をバックアップするのか。日本国内のアメリカ軍の基地がミサイル攻撃を受けると想定しているのか。日本はアメリカ兵を守るべきなのか。
また「リスクが高い」と「はるかに慎重」とは具体的にどう違うのか。「慎重」の主語は中国なのか、それとも、リチャード・クーや劉彦甫らなのか。
今回の宇野の論壇時評は説明不足で、読み手に判断を求めるものとしては、私は不満である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます