科学と専門家と政治とに関する議論があると、いつも腹がたつ。これらの論者は大バカでないか。
きょう(7月2日)の朝日新聞の科学面に『科学的な知見 政策に生かすには』があった。
1週間前の6月25日の朝日新聞の科学面に『「暗黙知」欠く専門家に注意』があった。
何が腹たつかというと、現実の人間社会は平等でない、民主的でない、誰かが得をして誰かが損をするのに、科学が、専門家が、公平な政策を導くことができるかのように論理を組み立てることだ。そんなことは幻想だ。
専門家の意見を適切に政策決定の過程に反映すると言っても、誰が政策を決定するのか。私が政策決定に参加できているのか。明らかに参加できていない。
「専門家の意見を政策決定の過程に反映する」と言う言葉自体に、専門家自体も政策決定集団から排除されていることを前提している。
世の中は階級社会である。階級社会とは、血筋がどうだかという問題ではなく、人間関係に上下があることをいう。誰かが誰かを支配する構造であることをいう。支配する側が憐れみの情で支配される側のことを思ったとしても、支配―被支配構造があれば、意思決定する側の誰かが自分の利益にもとづいて行動することが絶えずでてくる。
階級社会でないようにするには、徹底的に民主的社会にするしかない。誰もが平等に意見をいい、意思決定に参加するのでなければいけない。
政策決定集団が少数であることを、プラントンは著作 “πολιτεία”(ポリテイア)で “ἀριστοκρατία”(アリストクラティア)と呼んだ。藤沢令夫は「優秀者支配制」と訳した。日本の現実は、もしかしたら、モナキィかもしれない。安倍晋三は三代にわたる政治家の一族の出だし、長期政権にある。
M. I. フィンリーは、『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、現在の民主主義社会は名目上で、実態は、ただ一人の意思で、あるいは、一部の集団の意思で民衆を動かそうとするための官僚組織と、それを権威化する専門家集団からなる、と言う。
古代アテナイの「民主政」では、プラトンの非難するように、役職は抽選で持ち回りが原則で、現在のような政府も首相も大統領もなかったという。民会「έκκλησία」(エクレーシア)が最高の意思決定機関で、決まったことをアテナイの民衆が実行したという。
じつは、新約聖書の原典(ギリシア語)では「教会」のことをエクレーシアと呼んでいる。
フィンリーによれば、「戦争や平和、条約、財政、律法、公共事業、つまり統治活動の全領域に最終的な決定権を持つ民会は、18歳以上の年齢で、その日に出席した何千何万もの市民からなる野外の大衆集会であった。」
字も読めない靴職人や船大工などの民衆(デーモス)が民会に参加し、政策を決定できたのは、専門家が情報を提供して、彼らの意思決定を助けていたからである。
今回、政府やメディアが問題にしているのは、政府が設置した新型コロナ専門家会議が政府の思惑どおりに動かなかったことである。
しかし、逆の立場からみると、民衆に奉仕するという観点からみると、専門家会議メンバーがPCR検査の数をふやすように言っても、政府の官僚組織、厚生労働省は動かなかった。メンバーの西浦博教授は、感染者の情報があがってこないので、地方紙を取り寄せて調べたという。メンバーは、会議での議論を実名で公開して良いという。
とすると、問題は明確である。専門家会議は民衆(デーモス)に奉仕しようとしたから、権力者に罰せられたのである。いろいろな問題があったとしても、専門家会議の廃止は、民衆(デーモス)の利益に反する。
「政策に専門家の意見を反映する」ではなく「民衆(デモス)が意思決定をするために、専門家が奉仕する」ことを私は望む。
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