きょうは、井上陽水のアルバム『氷の世界』を、加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読みながら、聞く。
今日の夕方、新型コロナの解説する晴恵おばさんを見て、そういえば、井上陽水が『晴恵おばさん』という歌を歌っていたというのを思い出し、20年以上も前のCDアルバムを引っ張り出し、それ以上に古いステレオにかけた。
しばらく前にみたときは、晴恵おばさんは、痩せて、そのうえ、目の上を茶色に塗っていたので、幽霊か病人のように見えた。きょうは、眼鏡をつけていて、いつもの晴恵おばさんだ。
井上陽水の歌は『晴恵おばさん』でなかった。
☆ ☆ ☆
風は冷たい北風
早くおばさんの家で
子猫を膝にのせ、いつもののおばさんの
昔話を聞きたいな
小春おばさん会いに行くよ
明日必ず会いに行くよ
☆ ☆ ☆
『小春おばさん』だった。
井上陽水の歌詞は斬新だな、思ってアルバムを聞き続けた。
☆ ☆ ☆
まっ白い掃除機をながめては飽きもせず
かと言って触れもせず、そんなふうに君のまわりで
僕の1日が過ぎてゆく
☆ ☆ ☆
あとで歌詞をみたら、「掃除機」でなく、「陶磁器」であった。私がNPOで中学から担当している知的障害の子は、新幹線などの乗り物よりも、掃除機などの家庭用品に興味をもつ。「掃除機」をテーマとする童話がほしいと思っていたから、そう聞こえたのだろう。
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、最初のうちは連想ゲームをやっているように、話しがつぎからつぎへと飛ぶ。人間の歴史や人間の脳とは、論理的なものではないからだろう。面白いが、頭が混乱してくる。後半の4章、5章で話がようやく集約してくる。
私は、人間の脳は、コンピューターと違い、論理的にものを考えることが苦手にできていると思う。囲碁とか将棋のAIソフトは、論理的に勝ちを探すステップと統計的に判断するステップと切り替える戦略をとっている。人間の脳は自分の経験をもとに統計的に判断するようにできている。外からの刺激で、脳の中を興奮が四方八方に広がり、記憶の断片を活性化することで、結果的に多数決を行い、統計的な判断を下す。人間は連想によって判断するとも言える。
考えるのは人間だけでなく、カラスでもアライグマでも考える。考えるとは試行錯誤をすることである。試行錯誤の結果 得た筋道は手続きとして記憶される。これが論理と見なされる。誤解されるといった方がよいかもしれない。
加藤陽子によれば、1941年9月6日の御前会議で、日本が米国に開戦すべき理由として、1614年の大阪冬の陣の和平交渉をひきあいにだし、日米交渉を妥結すると、より戦争で勝てない状況に追い込まれると、軍令部総長が天皇に説明した。
1941年11月15日に、海軍が真珠湾攻撃を含んだ作戦計画を天皇に説明するに、1560年の織田信長の奇襲攻撃、桶狭間の戦いを例に引いた。
これらの戦争の記憶(伝承)が、現在行おうという戦争の論理的裏付けになると思えない。人間の統計的判断を逆に狂わす要因になる。
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