2週間前3月20日の朝日新聞に『私権制限 どこまでゆるされる』と見出しで政治社会学者の堀内進之介のインタビュー記事があった。
そのなかで、つぎの2つの主張が気になる。
主張A「公益のために私権を制限する必要があるのは明らか。平時は私権を制限してはならない一方で、緊急時には構成員すべての人権を総体として擁護するために、一部の私権を制限する必要がある」
主張B「一般的な知識水準の有権者が社会をコントロールするという民主主義者の発想に無理が生じる」
主張Bが主張Aを生むのだろう。
主張Bを「エリート主義」あるいは「プラトン主義」という。大衆(デーモス)はバカで、賢い人間のみが「公益」を考えることができるという。
これに反対して、フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)のなかで、古代ギリシアで200年にわたって民主主義が機能してきたのは、字を読めなくても、農民、小売商、職人たちが「政治的知(ポリティケー・テクネー)」をもっていたからだという。そして、「共同体意識」がそれをささえたという。
私も、大衆より専門家が「政治的知」をもっていると思わない。
そして、フィンリーは、専門的知識をもっている人々が、大衆が議論をし、判断をするのを助けていたという。情報提供である。
現代においても、専門家が、専制好きな一部の政治家の太鼓たたきになるのではなく、この民主主義社会で、大衆が議論し判断をすることを、情報提供で助ければ良い。すなわち、広い意味での啓蒙(enlightenment)の実践である。政府は求められた情報を公開しないといけない。
主張Aの問題点は、まず、「公益」とはなにか、「私権」とはなにかである。つぎに、「緊急時」とはなにかである。
主張Aでは、「人権」と「私権」とを区別している。ウィキペディアでは、日本の法律では、私権が「財産権(物権、債権、社員権、知的財産権)」と「非財産権(人格権、身分権)」とに分類されているという。「人格権」とはプライバシーのことをいうのだろう。
日本国憲法29条では
「財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」
憲法では「公益」を「公共の福祉」と言い換えられているが、あいまいであることには変わらない。あいまいなものは、社会で日ごろから合意できていないといけない。これが「共同体意識」である。
私は平時でも財産権は制限しても良いと思っているが、何をどの程度制限するかの社会の合意を形成する必要がある。「緊急時」だからいって、あわてふためいて、財産権を制限するのは安易である。
メルケル首相は、3月11日の新型コロナ危機で、“Solidarität”を訴えた。すなわち、「緊急時」にもかかわらず、強権的な私権の制限ではなく、助け合い、他人に生命の危機をもたらさないということを訴えることで、この危機をのりきろうとした。4月1日現在、ドイツ国民の0.08パーセントが感染したが、致死率は1パーセント以下に抑えている。
日本の感染率はまだ国民の0.0018パーセントで、致死率は3パーセント弱である。
“Solidarität”とは、「団結」とか「連帯」とか訳されているが、社会主義運動、労働運動の用語である。メルケルは、「共同体意識」に代わる現代の民主主義社会の言葉として “Solidarität”を選び、国民はそれに答えたのである。
さて、日本はどうなのだろうか。私は、政治家が率直に話せば、専門家が分かりやすく話せば、日本の国民も、私権の強制的制限がなくても、適切な行動をとると思う。
感染爆発が起こる前に医療体制が崩壊するとは、愚の骨頂である。
安倍晋三がPCR検査をすすめるのに理解を示しても、少しも検査がすすまないのは どうしてか。影響力のある誰かがPCR検査の実施に反対しているのではないか。議論の場にひっぱり出さないといけない。2019年の新型インフルエンザのとき、厚労省はPCR検査をすすめず、いまだに、日本の感染者数はわからない状態である。
緊急事態を宣言し私権を制限するより、医療体制がどうして整わないのか、利害を調整するために、本音を議論の場にもってこないのはおかしい。
新型コロナの経済補償の話で、あれもこれもと要求だけが膨らんでいるが、本当に必要なのか、職業の転業や産業の変容も議論すべきではないか。
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