今野元は、『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)で、1959年のW・J・モムゼンの指摘を紹介している。Max Weberとアドルフ・ヒトラーと比較し、多くの点で共通していて、違いは、Weberが上層市民ブルジョア(Bürger)出身で、いっぽう、ヒトラーは下級官吏の子で「大衆(Volk)」として「市民」を嫌悪していたことである、という。
第1の共通点は、「闘争的政治観」で「社会ダーウィンニズム」に依拠していた。「ダーウィン進化論の適者保存(自然淘汰)説を敷衍(ふえん)して、強者の台頭と弱者の退出による社会進化を」目指していたという。
第2の共通点は、「ドイツ・ナショナリズム」である。
第3の共通点は、「国家を担う強靭な個人への期待」である。
第4の共通点は、「振興の労働者層にドイツ国民国家の将来的基盤を見た」ことである。
第5の共通点は、「カトリック勢力への批判的姿勢」である。
第6の共通点は、「西欧に世界の文化中心を見て、ドイツは西欧とともにあると考えた」ことである。
第7の共通点は、「統一主義を基本方針とした」ことである。
第8の共通点は、「前衛芸術」を受け入れなかったことである。
私は、とくに、第1の共通点に着目する。Weberは弱者に共感をもたない。弱者をきたない、不快な生き物としてしか見ていない。今野元の評伝から、Weberの言葉を引用しよう。
〈分隊のポーランドの不潔な子豚が、明け方になって髭を剃らず、顔を洗わず、ぷんぷん嫌な臭いをさせて勤務に出てきた〉
私の子どもの頃は「内風呂」なんてほとんどの家庭ではなかった。小学校に上がった頃からひとりで風呂屋に行くようになったが、月に1回程度であった。すなわち、垢まみれであった。「不潔」だと差別されてたまるか。
モムゼンの主張はナチスの「国民社会主義」とWeberの「国民国家主義」は「下から」か「上から」の違いで、ともに、人間は平等であるという他人への共感を欠いたものであったということである。
このようなWeberの著作が私の学生の頃、なぜ、まだ読まれていたか、不思議であったが、私の3歳上の遠藤興一が、2018年に、論文『丸山眞男とマックス・ヴェーバー 大塚久雄との比較からみえてくるものとは』のなかで、私の疑問に答えてくれていた。
〈1964四年のヴェーバーシンポジウム(後述)において、……、丸山は「ウェーバーの生き方やエートス論から『求道者精神』をつかみ取るというたぐいのウェーバー研究は、ロマン主義的ないし感傷主義的な『道徳主義』に陥る危険がある」と指摘した〉
大塚は自分の「求道者精神」をWeberに重ねて誤読していると丸山は言っているのだ。
遠藤は、日本でWeberの著作が流行した理由は、戦前の日本では、マルクス主義が禁じられており、それしか、社会学者が安全に論じられるものしかなかったからだという。遠藤は、経済学者の大河内一男(のちの東大総長)の言葉を引用している。
〈満州事変の頃から太平洋戦争にかけての十ヶ年(昭和6年~16年)、マックス・ ウェーバーくらゐ、日本で読まれ、尊重され、直接大きな影響を与へた学者はゐなかったのではあるまいか。ウェーバーは日本の若い層や学生にとって、マルクス主義の著作が焚書同然になって後は、社会科学を標榜するもののただひとつの、そして特に大切なことは、安全な拠り所であった。〉
ところが、大塚の誤読、「求道者としてのWeber」が戦後しばらく流通したのである。これは、私は、多分に、聖書も読んだことがなく、また、キリスト教の多様性への無知な知識人が、大塚や青山の話をそのまま信じたことにあると思う。戦後、日本の国家主義者は、差別主義者 Weberの体臭を正しく嗅ぎつけ、マルクス主義に対抗する思想家としたのだと思う。
大塚と丸山の相違に気づかない戦後の「市民運動」には、今、私はいかがわしさを感じる。この「市民」は上級市民 “Bürger”であったのではないか。
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