期待通り、宇野重規の『民主主義とは何か』(講談社現代新書)は面白い。コンパクトに論点がよくまとまっている。
「はじめに」から、彼は通念に直球勝負をしている。
A1 「民主主義とは多数決だ。より多くのひとびとが賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」
A2 「民主主義の下、すべての平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない」
B1 「選挙を通じて国民の代表を選ぶのが民主主義だ」
B2 「選挙だけが民主主義である」
C1 「民主主義とは国の制度のことだ」
C2 「民主主義とは理念だ」
お気づきのように、1が「通念」で、2が宇野の「信念」である。私も2の意見である。本書は、彼がなぜ 2の立場をとるのかを説明する。
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「序 民主主義の危機」も論点がしぼられている。目前の民主主義の危機とはつぎである。
- ポピュリズムの台頭
- 独裁的指導者の増加
- 第4次産業革命の影響
- コロナ危機と民主主義
彼は現在の4つの危機を民主主義の乗り越えるべき試練ととらえ、それを乗り越えることで、民主主義がより素晴らしいものになると考えている。それは民主主義が「理念」だからである。
宇野は「ポピュリズムには既成政治や既成エリートに対する大衆の意義申し立ての側面」「ポピュリズムが提起した問題に対して、民主主義も正面から取り組む必要」と述べている。アメリカ政治学の中山俊宏もトランプ元大統領の評について同じ立場を述べている。
第4次産業革命とはIT技術の勃興ということだが、宇野はAI技術を過大評価していると思う。IT技術が事務職の地位を引き下げたことは評価すべきであると思う。私は中間層は要らないと思う。中間層は民主主義を安定化させると考える人もいるが、現実の中間層は特権階級を守る防波堤として機能しており、民主主義の担い手ではない。中間層が没落することは、特権階級を追放するために、必要な道標である。
また、人が自分に都合の良い情報だけのなかに埋没しようとするのは昔からのことであり、IT技術やAI技術のせいではない。マイクロソフトやグーグルがいつもステレオタイプ的な情報の押し売りをするのに私はうんざりしている。ツイッターやフェースブックやラインは絶対に使わないことにしている。
AI技術が行政に使われたときの危険は、学習という統計的手法のため、個々人のユニークネスが無視され、個別性を無視した一律的な対応がされること、すなわち、人間であることが否定されることである。AIは個人を尊重しない保守政治家、官僚のように機能する。
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「第1章 民主主義の「誕生」」は、古代ギリシアの民主主義を扱っている。現在の民主主義を相対化するために、重要な章である。M.I.フィンリーの『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)より単刀直入で詳細である。
《最盛期のアテナイの民主主義においては、一部の例外を除き、すべての公職が抽選で選ばれました。》
これはよく知られているが、宇野はつぎの言葉を添えている。
《これに対し、選挙はむしろ「より優れた人々」を選ぶ仕組みとして理解され、その意味で貴族的であるとされました。》
また、彼はつぎの指摘をしている。
《古代ギリシアの人々は、民主主義の制度と実践について、きわめて自覚的でした。彼らは自分たちが採用している仕組みについて誇りをもち、これをみずからのアイデンティティとしました。》
バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)で、ギリシアの古代民主主義は王侯貴族と血塗られた抗争の結果、勝ち取られたものであると書いている。宇野もこの事実を指摘しながら、もっと広い世界史的視点から、メソポタミアの強国の周辺国だったことが、古代民主主義に幸いしたという視点を付け加えている。
また、奴隷と市民との関係についても、ギリシアとローマとの違いに言及している。ギリシアの市民が自分自身の手でものを生産する労働者(worker)であったことが、民主主義を存続させたと指摘している。
プラトンをはじめとする古代民主主義の敵対者も取り上げている。
民主主義とは何かを考えるうえで本書は貴重な論点を与えてくれる。
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