きょうの朝日新聞に、ゴリラ学の山極寿一が『豊かな「遊び」、スポーツの起源に帰ろう』を寄稿していた。ネット上にも掲載されている。
山極によると、ゴリラもみんなで集まって体を動かして遊ぶのだそうだ。
《取っ組み合ったり、追いかけ合ったりして、ときには短い休止を挟んで1時間以上も遊び続けることがある。互いに高いところに上って胸をたたき合う「お山の大将ごっこ」や、数頭が数珠つなぎになって歩く「電車ごっこ」に似た遊びもある。》
強いものが弱い者を脅かすためでない。対等になって、いっしょになって、楽しむために、体と体とが触れ合いながら、ひたすら遊ぶ。黒い毛につつまれた大きな体のゴリラが、おしりを丸出しにしながら、じゃれ合って、仲間意識を育てる。
山極寿一は、2年前、日本学術会議の会長していて、当時の鈴木大地スポーツ庁長官から依頼を受けて、「科学的エビデンスに基づくスポーツの価値の普及のあり方」について審議して、報告書を作成したという。
スポーツは、ゴリラや子どもの遊びと同じでいいのだ。体と体とが触れあい、互いの汗、体臭を身近に感じ、ゲームに熱中しあい、同じ人間であることを確認するのだ。そして、互いに健康な体を保つ。
大学時代、毎日、お昼に、教室のみんなが、サッカー部のレギュラーもまじって、オフサイドも人数もルールも無視し、サッカーボールを追っていたことが懐かしく思い出される。
決して、スポーツは個々人の優劣、集団の優劣、国の優劣を競うものではない。
山極は言う。
《最近のオリンピックは商業主義が目立ち、観光収入や放映権をめぐって大量の札束が飛び交う国家事業になった。放映権を握るアメリカのテレビ会社に配慮して競技の時間を設定したり、海外のプロスポーツとかち合わないように酷暑の夏に開催したりと、どうも選手や観客の健康に配慮しているとは思えない。》
それだけではない。
《一番の問題は、オリンピックが国の威信をめぐる戦いの場と化していることだ。「オリンピックは参加することに意義がある」というクーベルタン男爵の言葉はどこへやら、今はメダルをいくつ取るかが国や人々の主な関心事である。》
商業主義、国威高揚、選挙対策というスポーツを囲む輩(やから)だけが悪いのでない。オリンピックで活躍すれば、スポーツで食べて行けるのが当然だという風潮が選手の中ではびこっている。そして、堂々と「感動を勇気を国民にとどける」などとほざく。
だいたい、外で、体と体が触れあう、抱き合うことが難しくなった新型コロナの感染爆発の中で、不純な動機ばかりのオリンピックをやる必要があるのか。
テレビはオリンピックにハイジャックされたかのように、オリンピックしか放映しない。とても、不愉快だ。そして、アナウンサーはとってつけたかのように、選手のヨイショばかりをする。戦時中の「爆弾三勇士」の放送のようだ。
スポーツはみんなで遊ぶものだという本質を忘れている。相手が打ち返せない玉をサーブしてばかりで、どこが楽しいのだ。たまに、すごいサーブをするのなら、わぁっといって驚く楽しみもあるが、常に相手が打ち返せない玉をサーブするのでは、見てても面白くない。勝ち負けにこだわるスポーツを「普及」させたって、意味がない。
山極寿一の日本学術会議報告書「科学的エビデンスに基づくスポーツの価値の普及のあり方」に何が書かれていたのか、とても気になる。
「ゴリラに学べ」だろうか。「オリンピックを開催する意味がない」だろうか。
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