新総理大臣の菅義偉が、日本学術会議の推薦する新会員候補者のうち、6名の任命を拒否した。これに対し、日本学術会議は、任命拒否の理由を明らかにすることと、拒否された6名の任命を要望している。
これは、菅が欧米のブルジョア民主主義的価値観を尊重するかどうか、の試金石となっている。現状は、ブルジョア民主主義的価値観「学問の自由」を菅は否定したことになる。
日本学術会議の会員は210人からなり、任期6年で再任はない。3年ごとに会員の半分が入れ替えになる。日本学術会議法の第1条によって、日本学術会議は内閣総理大臣の所轄で、その経費は国庫の負担とされる。日本学術会議は国費負担だが、しかし、国の行政下部組織ではなく、第3条に、政府から「独立して」科学に関する重要事項を審議し、その実現を図り、また、研究の連絡を図り、その能率を向上させる とある。
問題は会員の選定であるが、日本学術会議法の第7条の2項に「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そして第17条に「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」とある。
欧米のブルジョア民主主義では、推薦し任命するとあれば、推薦されたら、そのまま任命するのが原則である。それが「学問の自由」である。19世紀末のプロセイン帝国の大学教授の任命でも、大学教授会が推薦した候補者をそのまま政府が任命するのが原則であった。
日本学術会議の会員の選出は、1984年に、学者間での選挙で選ぶ方法から、現在の研究分野ごとに候補者を推薦し、その推薦に基づいて総理大臣が任命するという形式に改正された。この前年の5月の参議院文教委員会では、委員から「推薦された方の任命を拒否するなどということはないのか」との質問に対し、当時の内閣官房総務審議官が、「実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません」と答えている。また、同じ年の11月の参議院文教委員会で、当時の総理府の総務長官は、「形だけの推薦制であって、学会のほうから推薦をしていただいた者は拒否しない、そのとおりの形だけの任命をしていく」と答えている。
そして、5月に答弁に立った当時の中曽根総理大臣は、日本学術会議について「独立性を重んじていくという政府の態度はいささかも変わるものではございません」、「学問の自由ということは憲法でも保障しておるところでございまして、特に日本学術会議法にはそういう独立性を保障しておる条文もあるわけでございまして、そういう点については今後政府も特に留意してまいるつもりでございます」と述べている。
「学問の自由」とは、教養や理性の価値に敬意を払い、学問をする人々を、利害にもとづき争う政治に巻き込まず、学問に専念させることが社会にとって有益という考えに基づく。ブルジョア民主主義的価値観と言ったのは、19世紀末に市民社会に生まれた考えであり、第1次世界大戦後、ファシストやナチがこれを否定したからである。第2次世界大戦後、「学問の自由」という考えは復活した。日本にも学術会議が生まれた。
多国籍企業IBMにもアカデミーオブテクノロジー(Academy of Technology)という会員組織がある。これも、会運営経費は会社負担で、取締役会に技術戦略を提言する。会員が新規会員を推薦し、会員の投票で新規会員が決まる。アメリカでは定年制がないので、任期は本人が死ぬか辞職するまでである。
一企業であっても、欧米では、科学者、技術者に尊敬の念をもち、独立性と自由を容認しているのである。
今回の推薦された会員の任命拒否は、欧米から見れば、ファシストやナチと同じく、市民社会の価値観「学問の自由」の否定に見えるだろう。じっさい、菅は極右組織「日本会議」の意見に従ったように見える。拒否された6名は、別に左翼ではなく、市民的価値観からかつて「安前保障関連法案」や「共謀罪」に反対意見を述べただけである。これで拒否されれば、「学問の自由」「表現の自由」が侵害されたことになる。
「叩き上げの首相」とはファシストやナチのことだったというのが現時点の私の感想である。
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