昨日、47歳の山本一郎が文芸春秋オンラインで、菅義偉による日本学術会議6名の任命拒否の件を茶化していた。
『菅義偉さん、日本学術会議に介入して面白がられる一部始終』で、彼が指摘した論点はつぎのようになる。
(1)学問の自由は幻想である。
(2)菅首相が拒否したのは特定個人の理由もなく行きあたりばったりで、総理大臣に任命権があるのを見せつけたかったからである。(パンドラの箱をあけたかっただけである。)
(3)日本学術会議は決議という形で政治的発言をしている。
(4)菅よりも加藤信勝官房長官のほうがのらりくらりしている。
山本一郎はバカではないか。そんなことを得意げに話さなくても、だれでも知っていることである。政治とは、利権争いである。誰のために何を争うかが問題である。
エンツォ・トラヴェルソは『全体主義』(平凡社新書)のなかで、つぎのように書いている。
〈1914年までは、ヨーロッパの大部分の国々で、アンシャン・レジーム、また支配的な上流階級の社会習慣とメンタリティが生きのびていた。〈現実に存在する〉自由主義は、ブルジョアと貴族の共生であり、制限選挙と労働者階級排除のもと、たしかに民主主義とはかけ離れたものだった。とはいえ、古典的自由主義の根本的な特徴は――分権、複数政党、公的機関、憲法による個人的権利の保障(表現の自由、信教の自由、居住地の自由など)――全体主義とは両立しえない。〉
トラヴェルソは、何を言っているかというと、現在、あたりまえかのように教えられている「自由」は、ブルジョア民主主義の概念であるが、「全体主義」と対抗する武器となる、と言っているのだ。「学問の自由」もその1つである。
日本国憲法 第23条 「学問の自由は、これを保障する。」
72歳の私が学生のころまで、「大学の自治」というものがあった。現在、これはない。東京大学も政府の管理の下にある。総長の選任にあたって、政府や財界が総長推薦リストの作成に加わるようになった。
「学問の自由」が幻想なら、すべての市民的「自由」も民主主義も幻想である。しかし、そんなことを持ち出して茶化して何の意味があるのか。
「学問の自由」は個人が数学を研究する、物理を研究する、法律を研究するという、単なる学問の選択の自由ではなく、「市民として行動するために真理を知る自由」であって、啓蒙思想からくる。みんなが知識をもって賢くなれば、みんなが幸せになる、という考えである。
その反対が愚民思想で、専門家が政治を行えばよい。たとえば、携帯の通信費をさげれば、若者はそれで満足するという考え方である。この考えでは、政治家、官僚のあいだに腐敗がはびこる。
山本一郎は日本学術会議が軍事研究に反対する声明を出したことを暗に非難しているが、そういう声明をだせる社会のほうが健全ではないか。
山本一郎は彼の戯れ言(ざれごと)をつぎで終える。
〈菅義偉さんが「どくさいスイッチ」でも手に入れたら躊躇なく全力で高橋名人ばりの連打をしかねない恐怖感を感じさせつつも、大学や研究室などにはびこる中華浸透に対する対抗も辞さずに張り切って政権運営をしていっていただければと願っています。〉
彼の学問への劣等感からくる戯言に返す言葉として、丸山眞男の言葉「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」を返す。
[蛇足]菅義偉は、経済政策を含め、「大日本帝国」への復帰を夢みて「日本会議」とタグをくんでいる。現実主義が「抑圧」の肯定なら、私は受け入れるわけにはいかない。ナチズムやファシズムの考え方である。
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