猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

手間のかかる子には手間をかけよう

2019-03-04 10:43:12 | 育児


手間のかかる子には、充分な手間をかけるのが良い。
手間のかかる子に疲れた親には、なぐさめや手助けを与えるのが良い。

ヒットラーは、手間のかかる子は国家の経済に害をなすと考え、抹殺しようとした。NHKの番組(2014年8月9日、17日放映)では、日本でも、戦争中、肢体不自由な子供たちが、「戦争遂行の役に立たない厄介者だから、空襲で死んでしまえ」との扱いを普通の人たちから受けたと、その子供をあずかっていた学校の長が証言していた。

公平や平等や効率の考えを子育てに持ち込んではいけない。それらは、強い子や乱暴者や恵まれた者の考えであるからだ。

手間のかかる子を育てるのは大変である。心身障害児教育に熱心であると言われる横浜市でも、いったん施設にあずかった子供たちを社会に戻すことができず、大人になった子供たちをカギをかけて閉じ込めるだけになっていると、大学の福祉専門家は言う。社会に子供たちを戻せないのは、障害児教育の技術レベルが低いからだが、施設の職員数を増やせば、カギかけや職員による虐待の問題はすぐにでも解決すると、その専門家は言う。

公平や平等や効率の考えを子育てに持ち込んではいけない。

重度心身障害児教育の目標は、人に好かれる子供に育てることだと思う。

私の経験では、ダウン症の子供は初めから人に好かれる「心」をもっているので、重度心身障害児とは思っていない。ダウン症の子供は、聴力や発声機構に障害をもち、ことばを話すことに困難をかかえることがある。ある程度聞こえる聴力をもっていても、音声を音素にはっきりと分解できないので、相手の表情や手ぶりや文脈の中で言葉を理解する。その子にとって大変な作業である。ダウン症の子供にそのような困難があることを知っていない人が意外と多い。周りの人がていねいに接すれば、ダウン症の子供と楽しいコミュニケーションがもてる。

一方、重度の知的能力障害児の教育では、まさに、人に好かれる子供に育てる努力がいる。基本は、人とコミュニケーションをもつことの楽しさを教えることである。聴力がしっかりしているなら、その子供に言葉を教えたい。ところが、現在の言語教育は、書き言葉を教えることに偏っている。話し言葉をどうやって教えるかについて書かれた本を図書館や本屋でさがしても見つからない。

12歳にもなって、一音節の言葉しか発することのできない子がいた。「と、と、と」と言い出したらトイレで、「ご、ご、ご」と言い出したら空腹を訴えている。この子は訴えてくるからまだ良い。10歳になっても、まったく話さない子もいる。15歳の子は、たくさんの物の名「お玉」、「鍋」、「おでん」、「からし」、「にら」などが言えるが、言葉が連関して出てこないから、親以外は何を話しているのか、理解できなかった。「オウム返し」や「ひとりごと」に根気よく介入したら、会話が持てるようになった。

手間のかかる子には、充分な手間をかけるのがいい。公平や平等や効率の考えを子育てに持ち込んではいけない。それらの考えが、その子を抹殺することがないとしても、カギをかけて子供を社会的に閉じ込めてしまうことになる。

人は何を思い、どう生きたか - 新約聖書を読む

2019-03-04 09:49:45 | 宗教



人は何を思い、どう生きたか、を知りたいため、私は本を読む。

新約聖書を初めて読んだのは、50年前、高校の時である。高校の体育館の前でルーテル教会の人が無料配布していた聖書を受けとったのである。その新約聖書は日本語と英語とが対になっていたので、英語の勉強のつもりで読み始めた。福音書には怒っている人間イエスが描かれているので、若い私には心地よく、大学でも読んだ。

新約聖書を含めて聖書を私が再び読みだしたのは3年半前である。悩み苦しむ息子に何か与えることができないかと思ったからである。残念ながら、私は、まだ、息子に何かを与えることができていないが。
新約聖書を再び読みだしたとき、若いときと異なり、私にとって、怒るイエスが必ずしも心地よくなかった。年をとった私は、罵詈雑言、誹謗中傷を含め、いかなる暴力も受け入れられなくなっていたからだ。

そのとき、加藤隆の書かれた本、『福音書=四つの物語』(講談社)や『歴史の中の「新約聖書」』(筑摩書房)を読んで、新約聖書の27の文書は色々な立場から書かれていることを知った。福音書のイエスは、書き手の属する教会、セクトの「思い」の投影である、と思うようになった。そういうことで、以前に増して新約聖書が深く読めるようになった。

新約聖書に一貫する流れは、神の治める国、社会変革への願いであり、心を改めることと人間への信頼のすすめである。それを阻害する行いに対して、人間イエスは怒っているのだ。『マルコ福音書』では、当時の社会的偏見に依然としてとらわれている弟子たちへも怒っている。ここまでは理解できる。
『マタイ福音書』の23章のパリサイ派(φαρισαῖοι)への非難は、そう言う気持ちも理解できるが、ユダヤ教内での正当性を競うライバルへの一方的な罵詈雑言かもしれないと思うと以前ほど共感しない。わたしには、それは1970年代の新左翼内の罵詈雑言を連想させる。

4つの福音書とも、イエスが、エルサレムの神殿内で、両替人たちの台や鳩の売人たちの椅子をひっくり返し、暴れる。両替人も鳩の売人も、神殿内にいるが、神殿が象徴する権力側の人間ではない。イエスは、これらの人たちを肉体的には傷つけてはいないが、その生業を暴力で邪魔している。ここも私が納得できないところだが、神殿に対するイエスの嫌悪は理解できる。

『使徒行伝』7章48-50節で、イエスの気持ちを代弁して、ステパノは次のように
ἀλλ᾽ οὐχ ὁ ὕψιστος ἐν χειροποιήτοις κατοικεῖ· καθὼς ὁ προφήτης λέγει,
(しかし、いと高き者は、人の手で造った家の内にはお住みにならない。預言者が言っているように、)
ὁ οὐρανός μοι θρόνος, ἡ δὲ γῆ ὑποπόδιον τῶν ποδῶν μου· ποῖον οἶκον οἰκοδομήσετέ μοι, λέγει κύριος, ἢ τίς τόπος τῆς καταπαύσεώς μου;
(『主はいう。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。どんな家をわたしのために建てるのか。わたしのいこいの場所は、どれか。)
οὐχὶ ἡ χείρ μου ἐποίησεν ταῦτα πάντα;
(これらは、すべて、わたしの手が造ったものではないか』)
と、エレサレム神殿を批判している。

ギリシア語を話す(ヘレニスト)のステパノには、エレサレム神殿は、権力の象徴で、神の住む所でないという思いがあったのである。
ステパノは言う。イスラエルの民はすべて平等に天幕の祭壇(σκηνή)を通して神とつうじることができたのに、イスラエルの3代目の王となったソロモンはエレサレムに神殿を作り、王権の基礎とした。

加藤隆によれば、『マルコ福音書』『ルカ福音書』は、人間と神とが「霊」によって直接話し合えるという立場であるという。
長谷川修一によれば、ソロモンの圧政がイスラエル王国の南北への分裂を生んだ。さらに、ソロモンの子孫である南のユダヤ王国のヨシヤ王は、それまでの神を崇拝する各地の施設をすべて破壊し、そしてエルサレムの神殿だけに限定することで、王権を固めた、という。

参考図書
加藤隆:「歴史の中の『新約聖書』」ちくま新書、筑摩書房、IBSN:978-4-480-06566-7(2010.9)
加藤隆:「福音書=四つの物語」選書メチエ 304、講談社 ISBN:4-06-258304-6 (2004.7)
長谷川修一:「聖書考古学 遺跡が語る史実」中公新書 中央公論新社 ISBN: 978-4-12-102205-9(2013.2)

コミュニケーション力がないと悩むあなたに

2019-03-04 08:30:30 | こころ


コミュニケーション力が欲しいと息子に責めたてられると、私が小学生のとき見たミュージカル映画「オズの魔法使い」を、いつも思い出す
それは、竜巻に家 (house) ごと「オズの国」へ吹き飛ばされた少女ドロシーが、うち(home) にかえるため、大魔法使いの「オズ」に会いに行く冒険物語だ。

途中で、自分は賢くないと悩むカカシと、自分は優しい心がないと悩むブリキ男と、自分は勇気がないと悩むライオンと出会う。4人は、助け合って悪い魔女を倒し、ついに、大魔法使いのオズと会う。ドロシーは自分をうちに返して、カカシは自分を賢くして、ブリキは自分に優しい心を、ライオンは自分に勇気をくださいとオズに願うが、オズの魔法は偽ものであることがわかる。しかし、このとき、オズは、あなたがたの願いはすでにかなえられている、カカシは充分に賢く、ブリキは充分に優しく、ライオンは充分に勇気がある、と告げる。最後にドロシーだが、良い魔女に教えられて、「おうちほど素晴らしところがない」という呪文を唱えると、目が覚めて「おうち(home) 」にいる。その枕元に、近所のカカシにそっくりの農夫、ブリキ男にそっくりの農夫、ライオンにそっくりの農夫がいて、ドロシーの意識が戻ったことをみんなで喜んでくれる。

人は色々と能力がないと悩むものである。しかし、悩んでいるうちに能力がついてくるものだ。自分でそれに気づくことはむずかしく、適切な人に適切に告知される必要がある。
特にコミュニケーション力はプレゼンテーション力と異なり、相手が共感する心を持ってないと、コミュニケーションが成立しない。
私と対話しているあなたには充分にコミュニケーション力がある。