手間のかかる子には、充分な手間をかけるのが良い。
手間のかかる子に疲れた親には、なぐさめや手助けを与えるのが良い。
ヒットラーは、手間のかかる子は国家の経済に害をなすと考え、抹殺しようとした。NHKの番組(2014年8月9日、17日放映)では、日本でも、戦争中、肢体不自由な子供たちが、「戦争遂行の役に立たない厄介者だから、空襲で死んでしまえ」との扱いを普通の人たちから受けたと、その子供をあずかっていた学校の長が証言していた。
公平や平等や効率の考えを子育てに持ち込んではいけない。それらは、強い子や乱暴者や恵まれた者の考えであるからだ。
手間のかかる子を育てるのは大変である。心身障害児教育に熱心であると言われる横浜市でも、いったん施設にあずかった子供たちを社会に戻すことができず、大人になった子供たちをカギをかけて閉じ込めるだけになっていると、大学の福祉専門家は言う。社会に子供たちを戻せないのは、障害児教育の技術レベルが低いからだが、施設の職員数を増やせば、カギかけや職員による虐待の問題はすぐにでも解決すると、その専門家は言う。
公平や平等や効率の考えを子育てに持ち込んではいけない。
重度心身障害児教育の目標は、人に好かれる子供に育てることだと思う。
私の経験では、ダウン症の子供は初めから人に好かれる「心」をもっているので、重度心身障害児とは思っていない。ダウン症の子供は、聴力や発声機構に障害をもち、ことばを話すことに困難をかかえることがある。ある程度聞こえる聴力をもっていても、音声を音素にはっきりと分解できないので、相手の表情や手ぶりや文脈の中で言葉を理解する。その子にとって大変な作業である。ダウン症の子供にそのような困難があることを知っていない人が意外と多い。周りの人がていねいに接すれば、ダウン症の子供と楽しいコミュニケーションがもてる。
一方、重度の知的能力障害児の教育では、まさに、人に好かれる子供に育てる努力がいる。基本は、人とコミュニケーションをもつことの楽しさを教えることである。聴力がしっかりしているなら、その子供に言葉を教えたい。ところが、現在の言語教育は、書き言葉を教えることに偏っている。話し言葉をどうやって教えるかについて書かれた本を図書館や本屋でさがしても見つからない。
12歳にもなって、一音節の言葉しか発することのできない子がいた。「と、と、と」と言い出したらトイレで、「ご、ご、ご」と言い出したら空腹を訴えている。この子は訴えてくるからまだ良い。10歳になっても、まったく話さない子もいる。15歳の子は、たくさんの物の名「お玉」、「鍋」、「おでん」、「からし」、「にら」などが言えるが、言葉が連関して出てこないから、親以外は何を話しているのか、理解できなかった。「オウム返し」や「ひとりごと」に根気よく介入したら、会話が持てるようになった。
手間のかかる子には、充分な手間をかけるのがいい。公平や平等や効率の考えを子育てに持ち込んではいけない。それらの考えが、その子を抹殺することがないとしても、カギをかけて子供を社会的に閉じ込めてしまうことになる。